2011年6月5日日曜日

震災から80日が過ぎた石巻と女川のいま

震災から80日が過ぎた石巻と女川のいま

おととい5月31日の河北新報の記事で、牡鹿半島の先端を洗う「山鳥(やまどり)渡し」と呼ばれる狭い瀬戸を渡ったところにある島・金華山(きんかさん)が、3月11日の大地震と4月7日の余震で大きな被害を受けたことをはじめて知りました。
今は石巻市に属するこの島の黄金山(こがねやま)神社の拝殿前に立つ青銅製の燈籠(とうろう)は、香川県の金毘羅(こんぴら)さんや山形県の山寺の燈籠とともに日本三大燈籠とされてきたものです。
これを最初に目にしたのは、まだ小学生だった昔、はじめて両親にこの島に連れて来てもらった時。
それ以来何度となく見てきたこの燈籠(常夜灯)が二つとも地震で折れ逆さに倒れている(記事の横の)大きな写真を目にして、亡くなった父や弟や友人などとこの島で共に過ごした時がよみがえってきました。
同時に、長くゆるやかに見える時の流れの速さ・短さと無常を思い知らされもしました。
さて、このたびの東北地方太平洋沖地震とそれに伴って起きた大津波から、早くも80日が過ぎ去りました。
5月29日付けの朝日新聞の「主な被害状況」によれば、最も被害の激しいのは石巻市(人口は約17万人)です。
亡くなった人は3025人と3千人を超えています(ついでひどいのは岩手県陸前高田市の1506人)。
行方不明者も約2770人に上っています(つづいては岩手県大槌町の約950人)。
そして、全壊した住宅数は約2万8千棟に及んでいます(次に多いのは西隣の東松島市の約4790棟)。
石巻市に海岸部と島部を除いた周りをぐるりと囲まれた女川町(人口約1万人)も、人口に対する被害の割合は高く、死亡者は476人、行方不明者は約570人に上り、住宅の全壊は約3020棟を数えます。
最近、遠方から取材にやってきた新聞社のチームの車で見て回ることができた女川町の原発近くの沿岸にある各集落の被害状況は、2か月半以上過ぎた今も3・11直後と余り変わらず、集落のほとんどの住民が学校などの避難所で過ごしている例も少なくありません。
これまでに復旧した鉄道について見ると、仙石線で運行が再開されたのは、(終着駅どおしである石巻・あおば通り間のほぼ中間地点にある)高城町から青葉通りまで(約26キロ)だけ。
石巻・矢本間(約9キロ)も7月末には運行再開の予定とのことですが、矢本・高城町間(約16キロ)はまだ再開の見通しが立っていないといいます。
石巻線も、石巻・小牛田間は通じたものの、石巻と終点の女川間の線路などの復旧の見通しはまだ全く立っていないようです。
一方、宮城県内の各家庭の停電は、津波で家屋などが流失した地域の約4万9千戸と女川町の出島(いずしま)を除き、5月30日中にすべて解消したということです。
温帯低気圧に変わった台風2号の強い風と雨で石巻地方が大荒れの天気となったこの日、妻が看護師として去年3月まで勤めていた石巻赤十字病院では、看護専門学校の約2か月遅れの入学式が行なわれました。
新入生は39人。うち18人が被災し、1人が避難所から通うといいます。
湊地区にある石巻赤十字看護専門学校校舎で授業中に地震に遭った2、3年生(当時1,2年生)は、津波警報を聞いて避難所の湊小学校に避難、そこでお年寄りや体の弱った被災者の看護に当たってきたとのこと。
6月から開始される今年度の授業は、津波被害で校舎が使えなくなったため、石巻専修大学の教室を間借りして行なわれるということです(5月31日付け毎日新聞、6月1日付け石巻かほく)。
ありがたいことに、震災後間もなくの3月27日、松本桂輔さん(40)という方が札幌の診療所を休職して当地方の中核病院である石巻赤十字病院にボランティア応援医師として駆けつけ、今も同病院で活動に当たっているといいます。
その方がきょう6月2日付けの河北新報の記事「助け合う力」第20回で次のように述べています(かっこ内は筆者の注)。
「震災直後、石巻赤十字病院のスタッフに電話をかけ、人手が足りず大変な状況だということが分かった。自分を育ててくれた地域への恩返しの意味でも、ぜひ力になりたいと思った。・・・混乱は少し収まっていたが、救急外来の患者が次々と訪れ(診察のため3月23日に訪れ、27日にまた訪れてそのまま入院した私もそのひとり)、全国から駆けつけた医師たちが懸命の診察に追われていた(初めに訪れた際に私が診てもらったのは福岡市の医師や看護師)。・・・私が研修医をしていたころ、石巻赤十字病院は現在の蛇田地区に移転する前で湊地区にあった。その湊地区は津波で壊滅的な被害を受け、変わり果てた状態だった。ショックだった。復興にはかなりの時間を要すると思うが、いつか必ず元気な姿を取り戻してくれると信じている」
北上川を挟んで石巻赤十字病院のある地区の対岸にある石巻専修大学の広大なキャンパスには、震災後千二百人もの人々が一時的に避難したといいます。
「石巻市災害ボランティアセンター」となったこの大学を1カ月ほど前に私が訪れたとき、全国各地から集まった多くのボランティアがキャンパスの外側にある堤防のすそにまでテントを張っているのに驚きましたが、このキャンパスで今も700人を超すボランティアが寝泊りしているとのことです(5月31日付けの朝日新聞のワイド記事「大学、地域の復興に力」)。
海外から石巻に支援にやって来る人々も少なくありません。
2004年のスマトラ沖地震に伴って起きたインド洋の津波で、スリランカでは約3万5千人もの死者・行方不明者が出ました。
そのスリランカの政府が派遣した15人の支援チームもその一つです。
5月13日に石巻に入りし、NGO「ピースボート」の基でガレキの撤去やテントの設営・修復などの支援活動を行ない、避難所となっている小学校で太鼓やギターなどの演奏もしたということです。
このチームの隊長チャンダナ・ウィクラマナイケさん(39)は次のように語っています(5月31付けの朝日新聞に載ったコラム記事「世界から被災地へ」)。
「我々が津波被害を受けた時に支援してくれた日本に恩返しができた。津波被害をうけた国民同士、一緒に立ち直っていきたい」
5月30日、女川の町立第1中学校で、香川県の陸上自衛隊第14旅団第15普通科連隊と第14偵察隊(香川県善通寺市駐屯)の隊員たち(女川町で活動してきたのは400人)に対する感謝の式(隊員80人が出席、町内の小中学生と教職員ら約300人が参加)がありました。
このほど任務を終えて地元の第6師団と交代することになったというこの香川県の自衛隊員たちは、震災から1週間後の3月18日に女川に入ってから2カ月以上ものあいだ復旧活動に当たってきたといいます。
次は、各学校を代表して感謝の言葉を述べた生徒たちの1人、佐藤理句君(女川1小6年)が隊員の方たちに贈ったメッセージです(5月30日付け石巻日日新聞)。
「ぼくたちが住む女川町は津波によって、たくさんの人が命をうばわれ、建物がこわされました。今まできれいだった町がなくなりました。ぼくは大きなショックをうけました。これからどうなるんだろうと不安でいっぱいでした。
それから2,3日して皆さんが来てくれました。初めは、なぜ来てくれたのかはわかりませんでした。・・・
毎日、ガレキの処理をしてくれたり、救援物資を運んでくれたりしました。食べ物をいただいた時は、とてもうれしく家族でよろこびました。周りの人たちもみな、うれしそうな表情でした。
また、女川1小が中学校へ引越しをするときも手伝っていただきました。自衛隊の協力のおかげで、引越しも安心してできました。
それからお風呂でもお世話になりました。ぼくは自衛隊の“こうぼうの湯”がとても気持ちよく大好きです。
震災から2か月が過ぎました。遠くの香川県に家族を残して、ぼくたちの女川町のために活動する姿に勇気と希望をいただきました。ふるさとの香川県では、きっとみなさんの帰りを家族の方が楽しみに待っていることと思います。帰ったら家族の方をだきしめてください。そして、これまで会えなかった時間を取り戻してください。
ぼくたちも、この女川町をいつまでも大切にし、一生けん命生きていきます。何年後かに新しく生まれ変わった女川町に来てください。その時を楽しみにしています。
自衛隊のみなさん、ありがとうございました。さようなら」
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