2019年12月18日水曜日

歳末、「幕末の動乱の中で」

幕末の動乱の中で

彦根藩時代は藩政改革を行い、名君と呼ばれた。また、江戸城では溜詰として、将軍継嗣問題日米修好通商条約調印問題をめぐり存在感を示す。
嘉永6年(1853年)、黒船来航に伴う江戸湾(東京湾)防備に活躍したが、老中首座の阿部正弘が、黒船を送り込んできたアメリカ合衆国の要求に対する対策を諮問してきた時には、「臨機応変に対応すべきで、積極的に交易すべきである」と開国を主張している(ただし、直弼は元々は鎖国論者であり、彼の開国論を「政治的方便」とする説もある(後述))。
阿部正弘は、幕政を従来の譜代大名中心から雄藩藩主(徳川斉昭松平慶永ら)との連携方式に移行させ、斉昭を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させた。斉昭は攘夷を度々、強く唱えた。しかしこれは、溜詰の筆頭であり、また自ら開国派であった直弼としては許しがたいものであった。直弼ら溜詰諸侯と、阿部正弘や徳川斉昭の対立は、日米和親条約の締結をめぐる江戸城西湖の間での討議で頂点に達した。このため斉昭は阿部に、開国・通商派の老中・松平乗全(直弼とは個人的に書簡をやり取りするほど親しかった)、松平忠固の2名の更迭を要求した。
安政2年(1855年)8月4日、阿部はやむなく両名を老中から退けた。直弼は猛烈に抗議し、溜詰の意向を酌んだ者を速やかに老中に補充するよう阿部に迫った。阿部はこれまたやむなく溜詰の堀田正睦(開国派、下総佐倉藩主)を老中首座に起用し、対立はひとまず収束したが、これは乗全、忠固の罷免に対して直弼を筆頭とする溜詰諸侯が一矢報いた形といえる。
安政4年(1857年)6月17日に阿部正弘が死去すると、堀田正睦は直ちに松平忠固を老中に再任し、幕政は溜詰の意向を反映した堀田・松平の連立幕閣を形成した。さらに直弼は第13代将軍・徳川家定の継嗣問題で紀伊藩主の徳川慶福を推挙し、一橋慶喜を推す一橋派の徳川斉昭との対立を深めた。

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