2019年12月18日水曜日

戊午の密勅(ぼごのみっちょく)

戊午の密勅(ぼごのみっちょく)は、安政5年8月8日1858年9月14日)に孝明天皇水戸藩に幕政改革を指示する勅書(勅諚)を直接下賜した事件である。「戊午」は下賜された安政5年の干支が戊午(つちのえ・うま)であったことに由来し、「密勅」は正式な手続(関白九条尚忠の参内)を経ないままの下賜であったことによる(九条関白には武家伝奏から天皇の堅い意志である旨伝え、承認を受けた)。

密勅は、幕府寄りの関白九条尚忠の参内のないまま、武家伝奏 久我建通万里小路正房からの説明による執行奉承(事後承認)のみで、安政5年8月7日深更、武家伝奏万里小路正房の里亭にて水戸藩京都留守居役 鵜飼吉左衛門知信に下ったが、吉左衛門の持病が悪化していたため子の京都留守居役助役 幸吉知明が代わりに拝した。この際、幸吉は近衛忠煕から、この勅諚が日米修好通商条約締結後の、幕府による朝廷への度重なる非礼を戒め、謹慎中の斉昭を中心にして幕政改革を行うことを目的としている旨説明を受けた。幸吉はいったん自宅に戻り、大阪蔵屋敷手代・小瀬伝左衛門と変名し、籠担ぎに変装して空籠を担ぎながら東海道を潜行(副使の薩摩藩士・日下部伊三次中山道より下行)、16日深夜に水戸藩駒込邸にいた水戸藩主徳川慶篤に勅諚を伝えた。これに先立ち、薩摩藩士西郷吉之助が、水戸藩家老安島帯刀に水戸藩への勅諚降下・諸藩回送の可否を打診していたが、安嶋は藩状の混乱を理由にこれを断っており、西郷が京に帰ったのと入れ違いに鵜飼が勅諚をもたらしたため、安島は驚愕したという。ただし、西郷が京都を出発したの8月4日で、密勅の話が孝明天皇周辺に発生したのが8月5日であることを考えると、西郷伝説の一環としての、後日の創作である可能性がある。 また、斉昭は勅諚が水戸藩に下ったことを聞き、降下先が一ツ橋だったのなら諸藩への回送と幕政改革をやりおおせるであろうが、慶篤では、とても無理であろう、と言ったという。 幕府には、幕府との対立を意図するものではなく、協力して対外政策に当たることを意図するものであるとの関白九条尚忠の添書き付きで、10日に禁裏付大久保一翁を通じて伝えられたが、江戸より水戸に先着することを図っての時期であった。水戸藩から御三家御三卿には勅書の回送が行なわれたが、その他の諸藩には幕命により秘匿された。長州藩や越前藩等の雄藩には、写しが関白以外の摂家を通じて、縁家筋から送付された。

内容

  • 勅許なく日米修好通商条約安政五カ国条約)に調印したことへの呵責と、詳細な説明の要求。
  • 御三家および諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよとの命令。
  • 上記2つの内容を水戸藩から諸藩に廻達せよという副書。
以上の3つに要約することができる。将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡され、幕府を差し置いて水戸藩から全国諸藩へ密勅の写しを回送する指示を出したということは、幕府がないがしろにされ威信を失墜させられたということであったため、幕府は勅諚の内容を秘匿するよう慶篤に命じ、大老井伊直弼による安政の大獄を本格化させることになった。とりわけ、鵜飼吉左衛門から安嶋宛への書簡には、薩摩藩伏見挙兵計画の秘事が記されていたとされ[1]、幕府にその内容が漏洩したことで安政の大獄ではより厳重な処分となったといわれる。
草案段階では、将軍継嗣問題への言及も見られたが、奏請の結果、割愛となった。

勅諚全文

先般墨夷假條約無餘儀無次第ニ而、於神奈川調印、使節へ被渡候儀、猶又委細閒部下總守上京被及言上之趣候得共、先達而敕答諸大名衆儀被聞食度被仰出候詮茂無之、誠ニ以テ皇國重大ノ儀、調印之後言上、大樹公叡慮御伺之御趣意モ不相立、尤敕答之御次第ニ相背輕卒之取計、大樹公賢明之處、有司心得如何ト御不審被思召候。右樣之次第ニ而者、蠻夷狄之儀者、暫差置方、今御國內之治亂如何ト更ニ深被惱叡慮候。何卒公武御實ヲ被盡、御合體永久安全之樣ニト、偏被思召候。三家或大老上京被仰出候處、水戸尾張兩家愼中之趣被聞食、且又其餘宗室之向ニモ同樣御沙汰之由モ被聞食候。右者何等之罪狀ニ候哉。難被計候得共、柳營羽翼之面々、當今外夷追々入津不容易之時節、既ニ人心之歸向ニモ可相拘旁被惱宸襟候。兼而三家以下諸大名衆議被聞食度被仰出候旨、全永世安全公武御合体ニ而、被安叡慮候樣被思召候儀、外虜計之儀ニモ無之、內憂有之候而者、殊更深被惱宸襟候。彼是國家之大事ニ候閒、大老閣老其他三家三卿家門列藩外樣譜代共一同群議評定有之、誠忠之心ヲ以テ、得ト御正シ、國内治平、公武御合体、彌御長久之樣、德川御家ヲ扶助有之內ヲ整、外夷之侮ヲ不受樣ニト被思召候。早々可商議敕諚之事。
安政五戊午年八月八日
近衞左大臣
鷹司右大臣
一條内大臣
三條前内大臣
二條大納言

  水戸中納言
             廣橋大納言
             萬里小路大納言
(花押なし)

【水戸藩へ別紙 添書】
勅諚ノ趣 仰出サレ候 右ハ国家ノ大事ハ勿論 徳川家ヲ御扶助二 思食サレ候間 會議之有リ 御安全之様 勘考 有可キ旨 以之出格 思食仰出サレ候間 猶同列之方々三卿家門之衆以上隠居ニ至迄、列藩一同ニモ 御趣意相心得ラレ候様、向々ヘモ伝達之有可ク 仰出され候以上
※参考「戊午秘記」(東京大学史料編纂所データベース)、大森金五郎「大日本全史 下巻」(富山房、1922年発行)

水戸藩への影響

藩創設以来、水戸藩では藩主に忠実な改革派(尊皇攘夷派)と、幕府との関係を重視する保守門閥派(諸生党)との対立が激しかったが、密勅への対応を巡り、改革派の中でも、密勅の通りに勅書を諸藩に廻達すべきとする、家老武田耕雲斎を中心とした尊攘激派(後の天狗党)と、勅書は朝廷又は幕府に返納すべきとする、會澤正志斎を中心とした尊攘鎮派とに分裂して激しく対立し、三巴の混沌とした藩状のまま明治維新を迎えることとなる。
幕府は水戸藩に対し勅書の諸藩への回送取り止めを命じた上、勅書そのものの朝廷への返納を求めたが、勅書返納に反対する激派の藩士や領民は安政5年9月と安政6年5月に小金宿に集結し、勅書の返納を阻止するため気勢を挙げ、これに対して慶篤は家老大場弥右衛門、郡奉行金子孫二郎らを派遣して鎮撫に努めたが、抑え切れる状況ではなかった。
安政6年8月27日(1859年9月23日)、幕府は、密勅は天皇の意思ではなく水戸藩の陰謀とし、密勅降下に関わったとして家老安嶋帯刀切腹、奥祐筆茅根伊予之介、京都留守居役鵜飼吉左衛門斬首、京都留守居役助役同幸吉獄門勘定奉行鮎沢伊太夫遠島とし、斉昭水戸での永蟄居慶篤差控とした(安政の大獄)。
同年12月に幕府が朝廷に働きかけ、水戸藩に対し勅書を幕府に返納する事を命じ、水戸藩内では返納論が主流となっていたが、激派は水戸街道の長岡宿に集結し街道を封鎖して勅書の返納を実力阻止しようとした。勅書は歴代藩主の廟内で厳重に保管され、翌安政7年2月に勅書返納が正式に決まるが、城下で激派と鎮派が斬り合いとなる騒ぎが起こったり、斎藤留次郎が返納反対を訴えて水戸城内で切腹するなどの混乱があったりして返納は延期となった。長岡宿に屯集する激派に対して武力鎮圧する動きが起こると、激派の一部は脱藩して江戸へ向かい、安政7年3月3日(1860年3月24日)に井伊大老を襲撃することとなる(桜田門外の変)。変後の混乱により返納問題はうやむやとなり、勅書は水戸に留められた。
 政変の暗示であろう、お告げなのかもしれません。

ポツダム宣言(ポツダムせんげん、英: Potsdam Declaration)、とどめ!

ポツダム宣言(ポツダムせんげん、: Potsdam Declaration)は、1945年(昭和20年)7月26日イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席の名において大日本帝国日本)に対して発された、全13か条から成る宣言である。正式には日本への降伏要求の最終宣言Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)。宣言を発した各国の名をとって、「米英支三国共同宣言[1]ともいう[2]
他の枢軸国が降伏した後も交戦を続けていた日本は、1945年8月14日にこの宣言を受諾し、1945年9月2日に調印・即時発効(降伏文書)に至って第二次世界大戦太平洋戦争)は終結した。
ソビエト連邦は後から加わり追認した。
祖止めを指す宣言、おだぶつ宣言!

乙巳の変(いっしのへん、いつしのへん、おっしのへん)

乙巳の変(いっしのへん、いつしのへん、おっしのへん)は、中大兄皇子中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。俗に蘇我入鹿が殺された事件のことを指して「大化の改新」と言うこともあるが、厳密にはクーデターである「乙巳の変」に始まる一連の政治改革が「大化の改新」であり、「乙巳の変」は「大化の改新」の第一段階でしかない[1]

2019年12月17日火曜日

元素記号一覧表

元素記号一覧表。
・元素記号の単語カード形式サイト(元素記号 単語カード
・元素記号一覧表の切り替え(リンク無し 元素記号一覧表
原子番号 元素記号 日本語名
原子番号 元素記号 日本語名
1H水素
61Pmプロメチウム
2Heヘリウム
62Smサマリウム
3Liリチウム
63Euユウロピウム
4Beベリリウム
64Gdガドリニウム
5Bホウ素
65Tbテルビウム
6C炭素
66Dyジスプロシウム
7N窒素
67Hoホルミウム
8O酸素
68Erエルビウム
9Fフッ素
69Tmツリウム
10Neネオン
70Ybイッテルビウム
11Naナトリウム
71Luルテチウム
12Mgマグネシウム
72Hfハフニウム
13Alアルミニウム
73Taタンタル
14Siケイ素
74Wタングステン
15Pリン
75Reレニウム
16S硫黄
76Osオスミウム
17Cl塩素
77Irイリジウム
18Arアルゴン
78Pt白金
19Kカリウム
79Au
20Caカルシウム
80Hg水銀
21Scスカンジウム
81Tlタリウム
22Tiチタン
82Pb
23Vバナジウム
83Biビスマス
24Crクロム
84Poポロニウム
25Mnマンガン
85Atアスタチン
26Fe
86Rnラドン
27Coコバルト
87Frフランシウム
28Niニッケル
88Raラジウム
29Cu
89Acアクチニウム
30Zn亜鉛
90Thトリウム
31Gaガリウム
91Paプロトアクチニウム
32Geゲルマニウム
92Uウラン
33Asヒ素
93Npネプツニウム
34Seセレン
94Puプルトニウム
35Br臭素
95Amアメリシウム
36Krクリプトン
96Cmキュリウム
37Rbルビジウム
97Bkバークリウム
38Srストロンチウム
98Cfカリホルニウム
39Yイットリウム
99Esアインスタイニウム
40Zrジルコニウム
100Fmフェルミウム
41Nbニオブ
101Mdメンデレビウム
42Moモリブデン
102Noノーベリウム
43Tcテクネチウム
103Lrローレンシウム
44Ruルテニウム
104Rfラザホージウム
45Rhロジウム
105Dbドブニウム
46Pdパラジウム
106Sgシーボーギウム
47Ag
107Bhボーリウム
48Cdカドミウム
108Hsハッシウム
49Inインジウム
109Mtマイトネリウム
50Snスズ
110Dsダームスタチウム
51Sbアンチモン
111Rgレントゲニウム
52Teテルル
112Cnコペルニシウム
53Iヨウ素
113Nhニホニウム
54Xeキセノン
114Flフレロビウム
55Csセシウム
115Mcモスコビウム
56Baバリウム
116Lvリバモリウム
57Laランタン
117Tsテネシン
58Ceセリウム
118Ogオガネソン
59Prプラセオジム



60Ndネオジム



2019年12月15日日曜日

そして、10日後(3/11)

  調べた人に感謝します。


「皇太子夫妻に関わって不幸になった方々」年表

容量制限のため、文字数のやたら多い項目「3」を、ページ分けしました。
これで記載が増えても大丈夫w (当ページ最終編集日:2011/2/28)



 

3 / 「皇太子夫妻に関わって不幸になった方々」年表


■皇太子夫妻に関わって不幸になった方々■

●2001年以前

目黒の小和田二世帯住宅を建てた豊建設(高島屋の子会社)、倒産。

木工職人(愛子さまのおもちゃ作った人)若くして急死。
1996年
1月23日
学習院大学元学長(同大名誉教授、皇太子の恩師・論文指導)、安田元久氏(77歳)、皇太子が雅子を今度連れて行くと約束した矢先、自宅火災により妻とともに焼死。
(この時の皇太子にかけられた雅子妃の励ましの言葉→「あまり気を落とさないように」)
1996年
7月14日
君島一郎(雅子妃婚約後の正式写真に洋服が使われたデザイナー)、急死。

●2001年
2001年
6月1日
ネパールのディペンドラ皇太子、銃の乱射で自害(宮廷クーデター?)
(同年4月26日、雅子妃(愛子さまがお腹に宿ってまもない頃)は来日中の皇太子(親中派)と歓談)
2001年
9月25日
曽我東宮侍従長、急死。

●2002年
2002年
11月21日
仲良くしていただいた高円宮殿下(47歳)、若くして急死。
2002年 森英恵(雅子妃のウエディングドレスデザイナー)会社倒産。
2002年 26世宗家観世清和が愛人作って男の子産ませ、妻のあすかさんは長男と共に追い出され離婚。
(観世清和は皇太子のご学友、あすかさんは愛子さまご生誕時に雅子妃にメッセージを贈っている)

観世さんに悪影響を受け、宝生流の家元夫人、自殺。
2002年
12月5日
愛子さまのベビードレスを作った「杉山繊維工業」倒産。

●2003年
2003年
1月21日
東宮で大膳として料理の腕をふるった渡辺誠さん(54歳)、若くして急死。
2003年 岡村孝子、離婚(NTV系“皇太子様・雅子様ご成婚スペシャル”テーマ曲『フォーエバー・ロマンス』作詞/作曲)

●2004年
2004年
6月10日
野村万之丞(皇太子のご学友・44歳)、若くして急死。
2004年
9月27日
森村桂(雅子妃ご成婚の時にお祝いのケーキを焼く)、病院で自殺。
2004年 堤医師(雅子妃の不妊治療担当医師)、研究費横領疑惑で失脚。

●2005年
2005年7月 李玖氏(李垠殿下と梨本宮方子女王の息子)
「東宮夫妻には是非、韓国に訪問していただきたい」と言った途端に心臓麻痺で死去。
2005年
11月
アメリカのノルト女史、急死(同年2月に皇太子が彼女の詩を紹介)
2005年
12月13日
「愛子さまに」と2002年10月に贈られた象が、牙で飼育員をあぼーん。
(2006年3月6日、上野動物園休園日を貸し切り。愛子さま、象に餌やりを体験)

●2006年
2006年
1月中旬
雅子妃の愛馬「空勇(そらいさむ)」が、 主馬班の職員Aを蹴り上げ腸炸裂の重傷。
2006年
2月24日
韓国人指揮者チョン・ミュンフン、パリのコンサートを病気の為に突然キャンセル
(同年2月10日、雅子妃はお気に入りのチョン氏を招き2時間も英語で歓談)
2006年
3月29日
学習院院長・田島義博氏(75歳)死去。
(2005年11月15日 学習院幼稚園合格発表、愛子さま入園決定)
2006年
3月31日
猪口大臣、上智大学を解雇。
(大臣就任時のブルーのドレスは雅子妃ご成婚祝賀晩餐会用に作ったものだった)
2006年
3月5日
雅子妃の希望で、WBC日本-韓国戦を観戦し、いつものように途中で帰る→日本まさかの逆転負け。
2006年
3月13日
いつもの雅子妃の希望で、TDRを実妹親子&別一組親子と一緒に遊び、予定を数十分超過して帰る。
同年3月29日にオリエンタルランドが7年間で総額約12億円の申告漏れ発覚。
2006年
9月28日
雅子妃の祖父江頭葬儀の翌日に皇宮警察官(19歳)が、赤坂御用地内にある警備待機所のトイレでピストル自殺。
2006年
10月14日
のじぎく兵庫大会で選手や観客ら計91人が熱中症などで救護所で手当てを受け、
うち3人が病院に運ばれた。皇太子は13~15日にかけて、歓迎の集いや開会式に参加。

●2007年
2007年
5月5日
皇太子一家御料牧場の静養にて、馬車で牧場散策中に馬が暴走、御者の宮内庁車馬課職員が足を骨折。
(週刊新潮同記事より、1年程前に皇太子が御所内で乗馬中に落馬との情報もあり)
2007年
5月28日
港区の衆院赤坂議員宿舎の自室で松岡利勝農相(62)首吊り自殺。
27日の日本ダービーに競馬を管轄する農相の名で皇太子を招待していた。
2007年
7月7日
皇太子がモンゴルを訪問。伝統文化の案内役を務めた朝青龍関の両親に対し、
「(愛子が)朝青龍関のファンで、本名のダグワドルジを覚えて呼んでいます」と語る。
同月25日 「腰の疲労骨折とひざ痛で全治6週間」で夏巡業への参加を見合わせていた朝青龍関が、炎天下のモンゴルでサッカーイベントに出場していた様子が同日午後に報道される。
日本相撲協会から「減俸。2月場所出場停止。自宅謹慎」の重い処分が下される。

その後、適応障害の治療として一時モンゴルに帰国。
2008年1月場所で復帰するが、千秋楽にて白鵬関に敗れ優勝を逃す。
騒動は一応の終結を迎えたが、「サッカーをしていただけで処分された」というモンゴルでの誤解はとけていない。
2007年
7月28日
皇太子佐賀県行啓で高校総体開会式に出席。
同日開会式は急激に気温が上昇、出場選手や観客ら計117人が体調不良を訴え、救護テントに運び込まれた。

8月2日
陸上競技の最中に台風5号の接近でテントが吹き飛ばされ2人が怪我を負った。

8月3日
竜巻発生、更に激しい雷雨で度々競技が中断、一部競技は翌日以降に順延。

2007年10月22日に皇太子が登山で訪れたことのある雲取山、
雲取山荘前の大木が突然枯れる(日時未確定だが、2008年春の可能性が高い)。
雲取山荘主人「前年秋まで青々としていた葉が春にすべて落ちて枯れてしまいました。あっという間の出来事でした。」
(2009年1月16日:読売新聞の記事より)

●2008年
2008年
1月
歌会始めで皇太子が「蒼(あを)き水たたふる阿蘇の火口より噴煙はのぼる身にひびきつつ」という歌を発表。
同年3月12日、熊本・阿蘇市で野焼きの火が山林に燃え移り、7ヘクタール以上が焼失。
2008年
7月31日
田崎真珠資金繰り悪化で社長ら退任。
皇太子婚約発表後、雅子さんが田崎真珠の博物館を訪ね、テレビで取り上げられる。
その後、雅子さんに田崎真珠から数百万円相当の大粒の真珠ネックレスが贈呈されるが、即返却したとされている。
2008年
8月8日
皇太子富士山初登頂。
前日7日に富士宮口新5合目から登り始めた皇太子は、午前5時頃8合目の小屋でご来光を眺め、6:20過ぎに山頂へ。

同年8月9日
静岡県富士宮市の富士山登山道6~7合目間で、登山客が落雷による感電死。
1955年以降富士山で落雷で亡くなられた方は 1982年と2001年に一人ずつ。

同年8月9日 富士山初冠雪。
夏が終わらないと認定できないが過去最速の可能性有り。
甲府気象台によると、昼過ぎから大気の状態が不安定になり、山頂近くでひょうが降った。

同年8月11日午前2時37分ごろ 浅間山が小規模の噴火。浅間山の噴火は2004年12月9日の微噴火以来3年8か月ぶり。
2008年
09月
皇太子妃お気に入りの那須のパン屋、独立出店以来2度放火された後に閉店。
2008年
9月1日
第91代内閣総理大臣福田康夫、内閣総理大臣及び自民党総裁辞任。
公私にわたり小和田恒氏と縁が深く、総裁選時に「皇室典範改正(改悪)」を公言した人物。
2008年
9月6日
ホテルオークラ神戸の飲食店で食中毒が発生。
同年4月28日には同ホテルで日伯交流年・ブラジル移住100周年記念レセプションが開催されており、皇太子が出席していた。
2008年
9月8日
日本相撲協会北の湖理事長辞任。
皇太子一家の大相撲観戦時に北の湖理事長は後ろに座って解説。
2008年
9月
22日現在、大相撲秋場所において朝青龍5勝4敗(現在三連敗中、休場濃厚)

朝青龍は2010年1月、場所中の1月16日未明に泥酔して暴れる騒動を起こしたと写真週刊誌に報じられ、場所後に日本相撲協会の武蔵川理事長から厳重注意を受けた。さらに、別の週刊誌の報道で、被害者が当初、名乗り出た一個人マネージャーではなく一般人男性だったことが発覚。
2月1日には、同協会の(理事選挙後の)新理事会で、調査委員会の設置が決まった。
2008年
12月
大分キヤノンが業績悪化で1000人以上の従業員削減が明らかに。
さらには2009年1月に裏金脱税疑惑も発覚。

2007年12月4日に大分キヤノン株式会社を視察しており、皇太子愛用のカメラもキャノンであるとのこと。

●2009年
2009年
2月
水戸プラザホテルで集団食中毒発生。
同ホテルには2008年11月に皇太子が単独公務で宿泊している。
2009年
2月23日
洋菓子老舗「神田精養軒」自己破産申請へ。
2007年皇太子が十二指腸ポリープの手術入院していた際、
雅子さんが洋食レストラン『精養軒』から連日出前を取っていたとのこと。
2009年
3月13日
ダルビッシュ有投手がバス運転手の不注意で危機一髪。
ダルビッシュ投手がアリゾナ合宿の宿舎ホテル駐車場で荷物出しをしていたところ、
バスが急に発車、その後も今度はバスがバックしてきて危ない目に。
同年3月5日、WBC開幕戦で皇太子夫妻の強い希望により面会していた。
2009年
3月18日
トルコでタクシーが横転し通行人をなぎ倒しながら壁に激突し、日本から観光で訪れていた13歳の少年が重傷を負う事故が発生。
同年3月14日から3月18日まで皇太子は初のトルコ訪問をしている。
2009年
3月31日
児童養護施設「幸保愛児園」にて、10年間にわたっての施設の運営費約2000万円の私的流用、入所児童への虐待が発覚。
雅子妃は1997年頃から毎年、同施設にクリスマスのメッセージを贈っていた。
2009年
4月3日
イチローがめまいと頭痛を訴え、出血性胃潰瘍と診断され、メジャーリーグ進出後、初めて故障者リストに登録されたとマリナーズが発表。
同年3月5日、WBC中国戦の試合前に観戦に訪れた皇太子夫妻と面会していた。
2009年
4月30日
オランダ西部の都市アペルドールンで王族によるパレードを見学しようと集まっていた群衆に車が突っ込み、17人が死傷する惨劇が起こる。
アペルドールンは2006年に皇太子夫妻がオランダ静養で訪れている。
2009年
7月15日
長崎県佐世保市の大型リゾート施設「ハウステンボス」が経営状況悪化で支援要請。
同日より皇太子は長崎県行啓。翌16日にはハウステンボス訪問をしている。
なお、2009年7月30日には長崎オランダ村のシンボルだった帆船が火災で消失。
2009年
7月20日
横浜ベイスターズの内川聖一内野手が、両太もも裏の筋肉に張りが出たため今季初の欠場。
同年7月12日には皇太子一家が神宮球場においてヤクルト×横浜戦を観戦しており、内川選手は「愛子様お気に入りの選手」と報道されている。
2009年
8月27日
横浜×阪神の試合で横浜ファンが観客席から転落死。
同年7月12日には皇太子一家が神宮球場においてヤクルト×横浜戦を観戦している。
2009年
9月
常総学院が野球部員の新型インフルエンザ感染で秋季茨城大会への出場を辞退。
来春のセンバツが消える。
常総学院は同年夏の甲子園にも出場しており、同大会の開会式には皇太子が出席。さらに皇太子が観戦した開幕戦にも常総学院が登場している。
2009年
11月25日
スペイン国王の長女・エレナ王女が離婚。
エレナ王女は皇太子夫妻の「運命の出会い」のきっかけになった人。
(1986年10月18日、スペイン・エレナ王女歓迎パーティーで雅子さんが、名簿に手書きで名前を書き加え、急遽飛び込みで参加した)

●2010年
2010年
2月2日
アメリカでトヨタ自動車のハイブリッド車「プリウス」のブレーキの苦情が多発したことから、大規模なリコールへ発展。日本でもリコール問題が持ち上がる。
皇太子は2004年10月8日、トヨタ自動車株式会社堤工場を視察に訪れている。
なお、2007年10月13日には皇太子が乗車中の公用車(トヨタのセンチュリー)が、突然エンジントラブルで停車するという出来事も起こっている。
また、トヨタ自動車相談役でもある奥田碩は女性・女系天皇容認派であり、皇室典範に関する有識者会議のメンバーでもあった。
2010年
2月4日
朝青龍が日本相撲協会の理事会で事情聴取を受けた後、突然、暴行問題の責任を取る形で現役を引退することを表明した。
2010年
2月13日
東京・目黒区のケニア大使公邸で火事。
同時期にケニアのアンボセリ国立公園では干ばつで野生動物のエサ不足がおきていた。

同年3月に皇太子はアフリカ訪問でケニアを訪れており、その関連で
2009年12月18日には在ケニア大使の進講も受けている。
2010年
4月下旬
「那須どうぶつ王国」が季節はずれの雪のため、動物たちを屋外に出すのをやめ、一部の施設が臨時休園。
この時期の雪は開園してから初で、異例の措置とのこと。
「那須どうぶつ王国」は皇太子一家が静養で毎年訪れるほどのお気に入りの場所である。
2010年
4月26日
奈良で魚が大量死しているのが発見される。
同年4月22日・23日に皇太子は公務で奈良を訪れている。

なお、未確認情報ではあるが皇太子の訪れた奈良の平城遷都1300年祭会場で、23日にスタッフが転落か怪我をして救急車が来た、という書き込みあり。
2010年
4月
皇居ランナーに苦情続出。看板を設置しても効果がなく問題になる。
皇太子は以前から平日にSPを引き連れて皇居をマーキングするかのように走っており(毎月100km走ってるという報道あり)、皇居ランナーの一人であることが知られている。
2010年
5月20日
大関・琴光喜が野球賭博に手を染めているという報道が出る。
当初は関与を否定していたものの、のちに角界全体を揺るがす大事件に発展。
複数の親方・力士が処分される中、琴光喜も7月の名古屋場所休場が決まる。

琴光喜は愛子さまお気に入りの力士として知られている。
2010年
5月26日
ヤクルトの高田監督が成績不振の責任を取り、辞任を発表。

2009年7月には皇太子一家がヤクルト×横浜戦を観戦しており、学生時代に雅子さんは、選手時代の高田監督の大ファン(練習場までおっかけるほど)だったことが知られている。
なお、横浜もシーズン途中で大矢監督が辞任し、後任人事の契約関係が問題になった。
2010年
5月27日
4月下旬におきた米ルイジアナ州沖のメキシコ湾での原油流出事故が米史上最悪の流出量になったことを米地質調査所(USGS)などの調査団が発表。

2006年3月に皇太子はメキシコで行われた世界水フォーラムに出席しており、また2009年9月には日本メキシコ交流400周年記念式典に出席、2010年2月には日本メキシコ交流400周年記念特別展「ガレオン船が運んだ友好の夢」開催記念式典にも出席している。
2010年
6月
週刊新潮2010.6.10号において、「プリンセスマサコ」の著者ベン・ヒルズ氏が、日本語版を発行した北川明氏を印税未払いで訴訟を辞さない構えであることが報じられる。

(32000部の売り上げに対する印税230万265円(税別)が未払いのまま、とのこと。北川氏はノーコメント)
2010年
6月
ブラジルで豪雨による洪水で1000人にも及ぶ行方不明者が出る被害に。

2008年6月には皇太子がブラジル訪問をしている。
また、洪水被害を受けた町のひとつであるペルナンブコは弦楽器の弓の産地としても有名だが、皇太子は趣味でヴィオラを弾くことも知られており、二重の意味で法則ではとの声も。
2010年
6月22日
観世流シテ方能楽師の関根祥人さん死去。

関根氏は学習院幼稚園時代の遊びのグループ「ロケット団」(「ジェット団」も有った)のリーダーで、皇太子は他の6~7人の仲間とよく一緒に遊んだとのこと。
また1993年9月には、東宮仮御所で皇太子夫妻成婚を祝う会が開かれたとき、関根氏を含む4人の能楽師が舞を舞った。

関根氏の葬儀が営まれた7/3は、マドンナだったOという女性を偲んでのミニ同窓会を開く予定で、関根氏も公演終了後に参加する予定だった。
2010年
7月4日
日本相撲協会の臨時の理事会で琴光喜の解雇処分が決定し、琴光喜が角界を去る。

琴光喜は愛子さまお気に入りの力士として知られており、また琴光喜も自分の子供の名前に愛子さんから1字もらって名付けていた。
2010年
7月29日
日本酒「越後鶴亀」で知られる清酒メーカー「上原酒造」が新潟地裁に民事再生法の適用を申請。負債総額は約8億9700万円。
主力銘柄の越後鶴亀は、1993年に皇太子ご成婚の際の宮中晩さん会で、祝い酒として振る舞われたことで知られていた。
2010年
7月25日
埼玉県秩父市の「ぶどう沢」付近で、山岳事故の救助中の県の防災ヘリが墜落。その後も野次馬登山者、取材に行ったテレビ関係者が死亡し、連鎖的な遭難が相次ぐ。
同年6月には、雅子さんと愛子さんが学習院の校外学習で秩父を訪れており、過去に皇太子が秩父へ登山に来たことも。
2010年
9月16日
高級フレンチレストラン「シェ・松尾」倒産事業支援会社に事業を譲渡及び債務整理。

シェ・松尾では雅子さんが結婚直前の1993年6月4日、小和田一家と江頭豊・寿々子夫妻で、お祝いディナーが同店2階にある個室インペリアルルームで開かれたとのこと。
このことはオーナーシェフ松尾幸造氏が自身の著書にて写真入りで明かしている。
2010年
9月30日
TBSグループがプロ野球の横浜ベイスターズを売却する方向で検討と報道される。
2009年7月には皇太子一家がヤクルト×横浜戦を観戦しており、横浜ベイスターズは愛子さまのお気に入りと報道された内川選手が所属している球団である。
2010年
10月2日
愛知県の牟山神社の伝統行事「朝倉の梯子獅子」で
高さ約10メートルのやぐらの上で獅子舞を披露していた男性2人が転落し、重軽傷。
同年9月11日に皇太子は公務で愛知県を訪れており
(「あいちトリエンナーレ2010」視察時に中国人芸術家・蔡國強の作品を鑑賞し「芸術は爆発ですね」と発言)、
また、同年10月1日には皇太子夫妻が獅子舞を鑑賞している。
2010年
10月28日
エポック社の人気玩具「アクアビーズアート」で、ビーズが児童の耳に詰まる事故がおきたことから、消費者庁が使用者に注意を呼びかけ、またエポック社に対しては予防対策の強化を要請。
同年2月11日には、松屋デパートのおもちゃ売り場で愛子さまがアクアビーズ商品を購入している。
2010年
11月
学習院初等科志願者激減の記事がサンデー毎日に掲載される。
学習院初等科の競争率は通常は10倍程度(眞子さま・佳子さま入学時は15倍の人気)だったが、今年は3割減(男女それぞれ100人減)で、「学習院の減り方は尋常でない」とのこと。
同年3月には愛子さま不登校の報道があり、学習院の人気低下は一連の騒動によるものと見られている。
2010年
11月3日
栃木県の養豚場で火事がおこり、子豚約1万700頭が焼け死ぬ。
同年11月1日から皇太子一家は栃木県の御料牧場で静養しているが
その御料牧場には愛子さまお気に入りの子ブタがいることが知られており、
紙粘土で作ったブタの作品を披露したことも。また、静養出発時のニュースでは
「愛子さまはお気に入りのブタとの再会を楽しみにされている」と報道されていた。
2010年
11月8日
福島県で食用に輸送されていた馬を載せたトラックが横転し、9頭中5頭が死亡するという事故が起こる。また、2010年11月26日には、皇居外苑で騎馬隊員が護衛中に落馬し、首の骨を折る重症を負うという事故が発生。
同年11月1日~7日、皇太子一家は栃木県の御料牧場で静養しているが、その際に静養中の雅子さんのため、宮内庁車馬課が皇居で飼育している乗馬用の馬を車で6頭輸送している。
2010年
11月30日
島根県内の養鶏場で鳥インフルエンザウイルスが検出される。
同年11月9日に皇太子は「全国農業担い手サミット」式典出席のため島根県を訪れている。
2010年
12月3日
資生堂鎌倉工場で製造された製品の乳液約1トンが、大型トラックで運搬中に漏出。
漏れ出た乳液によって、オートバイなど二輪車3台が滑って転倒。
皇太子は2007年4月19日、資生堂鎌倉工場を視察に訪れている。
2011年
1月4日
皇太子が新国立劇場でオペラ「トリスタンとイゾルデ」を鑑賞したが
一幕では舞台装置がミス、三幕で1stヴァイオリンの人が倒れて救急車で運ばれる事態に。
なお1月11日には、このオペラの指揮者・大野和士氏が体調不良のため
東京フィルの定期演奏会への出演が不可能になったことが発表される。
2011年
2月22日
ニュージーランド・クライストチャーチで大地震が発生。
倒壊したビル「King's Education」に滞在していた日本人留学生が多数巻き込まれる。
前日の21日には、皇太子が51歳の誕生日を前にした合同記者会見を行っており
「若者は海外に留学を」と発言。
23日の皇太子誕生日にはそれらの発言や映像が変更・削除されることなく報道される。


この他にも、下記のような話題があったが
法則かどうかの判断が難しいので一旦保留に。

  • 皇太子が開会式に出席した高校総体や甲子園で生徒が続々とインフルエンザにかかった
  • 皇太子の水関連(水源地や下水処理場視察など関心を示した後ゲリラ豪雨や下水道事故がおこる)
  • ダルビッシュ離婚危機
  • 雅子さんがかまぼこ工場見学に行った後、神奈川に黒い粉(富士山の土らしい)が降る
  • 皇太子が演奏会でゴジラを演奏→小笠原で地震&津波
  • 力士の野球賭博で逮捕された人の中に「梓弓」という四股名を持っていた人がいる
  • 「ねむの木学園」5億詐取事件
  • よく関連がささやかれる六本木ヒルズや小布施町の話題など

※ライスシャワーという競走馬が、皇太子成婚記念の天皇賞を勝ってしまった途端
 「東宮の馬」と呼ばれ始め、その後謎のスランプに陥った挙句に死んでしまったという書き込み
(↑の件は時系列的に最近ではなく、年表のかなり前のほうに該当することになるので、一旦保留)

※英国王室結婚関連の色々は、まだ皇太子夫妻が行くかどうか正式決定してないみたいなので
 現時点では法則と結びつくかどうか様子見



deep も安楽死、7/29

 

消されるかもしれない、平成暗黒パワーの脅威!

 即位の令、平成暗黒パワー、失われた三十年、嘆きの三十年は皇室呪いの一部、祈りは万民の不幸の為、皇祖神にささげた三十年...,

2019年12月9日月曜日

日本の諸島、皇紀二千六百八十年

 皇紀二千六百八十年

地震列島、日本では甚大な被害を及ぼす規模の災害が多発、自然の怒り、人類に報復するかのように襲い掛かる。
さて、鬼界カルデラがそろそろ動きだした、九州地方の火山、火山列島である日本、縦割り横割りの地震活動の原動力が鬼界諸島、火山帯であり危惧しなければならないのが原発であると言えよう。

補説 :昭和硫黄島(しょうわいおうじま)は、鹿児島県鹿児島郡三島村に属する無人島海底火山噴火によって1934年昭和9年)から翌年にかけて、新たに形成された島嶼である。
日本領海内で火山活動による自然現象により新たに形成され、かつ現在まで残存し観測記録が残る島は、1973年(昭和48年)に誕生した小笠原諸島西之島新島と、この昭和硫黄島の2島のみである[1]新硫黄島とも呼ばれる[2]

 雲仙岳(うんぜんだけ)は、長崎県島原半島中央部にそびえる火山である。半島西方の橘湾を中心とする千々石カルデラの外輪に位置する。広義では、火山学上の「雲仙火山」と同義で、最高峰の平成新山をはじめ、三岳(三峰)とも呼ばれる普賢岳国見岳妙見岳、五峰(五岳)とも呼ばれる野岳九千部岳矢岳高岩山・絹笠山を含め、東の眉山から西の猿葉山まで、総計20以上の山々から構成される。雲仙岳の形の複雑さは、三岳五峰(三峰五岳)、八葉、二十四峰、三十六峰など様々な数字で表現されたが、観光上のキャッチフレーズとして「三峰五岳の雲仙岳」が多用されるようになった結果、狭義として八つの山(ときには三つの山)のみを指す用法も生まれたが、歴史的には海上にそびえる山並み全体を指す名称である。行政区分では島原市南島原市雲仙市にまたがる。しばしば、旧最高峰の普賢岳(雲仙普賢岳)の名称と混同して用いられる。

 当然のことながら、令和新山が誕生する準備は完了した。

鬼界ヶ島(きかいがしま)

鬼界ヶ島(きかいがしま)とは、1177年治承元年)の鹿ケ谷の陰謀により、俊寛平康頼藤原成経流罪にされた薩摩国に属す。古代以降、日本の南端の地として長い間認識されていた。
平家物語』によると、島の様子は次の通りである。
・舟はめったに通わず、人も希である。住民は色黒で、話す言葉も理解できず、男は烏帽子をかぶらず、女は髪を下げない。農夫はおらず穀物の類はなく、衣料品もない。島の中には高い山があり、常時火が燃えており、硫黄がたくさんあるので、この島を硫黄島ともいう(『平家物語』巻第二・大納言死去)。
・美しい堤の上の林、紅錦刺繍の敷物のような風景、雲のかかった神秘的な高嶺、綾絹のような緑などの見える場所があった。山の風景から木々に至るまで、どこよりもはるかに素晴らしい。南を望めば海は果てしなく、雲の波・煙の波が遠くへ延びて、北に目をやれば険しい山々から百尺の滝がみなぎり落ちている(『平家物語』巻第三・康頼祝言)。
1178年(治承2年)に康頼、成経は赦免され京に帰るが、俊寛のみは赦されず、独り島に残され、悲嘆のうちに死んだ。
鬼界ヶ島の現在の場所ははっきりしないが、薩南諸島の以下の島のいずれかと考えられている。
  • 硫黄島 - 1995年平成7年)5月に建てられた俊寛の銅像がある。火山の硫黄によって海が黄色に染まっていることから、「黄海ヶ島」と名付けられたとの説がある。
  • 喜界島 - 俊寛の墓と銅像がある。墓を調査した人類学者の鈴木尚によると、出土した骨は面長の貴族型の頭骨で、島外の相当身分の高い人物であると推測された。
また、薩南諸島とは離れた長崎県伊王島にも俊寛の墓がある。