2011年6月20日月曜日

文部科学省原子力安全課?とは


文部科学省原子力安全課
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-文部科学省-
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大日本帝国陸軍の道


伝染する無責任体質 今も「仮免」のまま

2011.6.19 18:00 (3/3ページ)岡田浩明の永田町便り
 「菅内閣の震災・原発対応は、日本を破滅に導いた大日本帝国陸軍の道と同じように思えてならない。情報は隠蔽する、公開が遅い。ある大将は『知らん』といい、中将も『知らん』。そしてトップまで『知らん』という。壮大なる無責任体制だ」
 震災前、首相は節目となる就任半年が経過した昨年12月12日、都内で開いた自身の後援会会合で、「これまでは『仮免許』だったが、これからが本番。自分の色を出していきたい」と決意を語った。その後、大震災という国難に、首相として政権運営を任されていることを「宿命」と断言したが、人命を守らない口先だけの震災対応を見る限り、いまだに「仮免許」のままのようだ。
 そして今、早期退陣論が吹き荒れる中、政策課題への意欲を小出しにしては延命に固執する首相。29日に首相は在任387日に達し、森喜朗元首相と並ぶ。10年前、与党の退陣圧力に屈した森氏だが、歴史は繰り返されるのか-。

2011年6月12日日曜日

美浜発電所3号機事故を踏まえた再発防止策について



2011年6月3日



第16回 原子力保全改革検証委員会

 当社は、美浜発電所3号機事故を踏まえた再発防止策について、社外の有識者を主体とした独立的な立場からその有効性を検証し、継続的な改善に支えられた安全の確保をより確実なものとすることを目的として、平成17年4月に「原子力保全改革検証委員会」を設置しました。
 第15回の委員会では、運転中タービン建屋等への立入制限対策を主とし た美浜発電所3号機事故再発防止対策、また平成22年度安全文化中間評価結果および重点施策の実施状況を中心に検証していただきました。運転中タービン建屋等への立入制限対策については、「本日の委員会で出された立入り制限の必要性の周知についての意見等や中間評価以降の試運用に係る現場の改善意見を活かして社内標準化を行い、本格運用につなげていただきたい。」、また、平成22年度の安全文化中間評価結果および重点施策の実施状況については、「平成22年8月に発生した大飯発電所タンク内墜落災害を踏まえ、他発電所との比較分析を行うなどの対応が取られているが、本日出された意見等をその施策の充実につなげるとともに、確実な水平展開をすることが望まれる」旨の評価をいただきました。
 今回の第16回検証委員会では、本格運用した運転中タービン建屋等への 立入制限対策を主とした美浜発電所3号機事故再発防止対策、また平成22年度の安全文化評価結果および重点施策の実施状況について、検証が行われました。その結果をお知らせいたします。 


1.日 時平成23年5月20日(金) 13時30分~17時15分
2.場 所関西電力株式会社 本店
3.出席者
委員長 【社 外】佐藤信昭(弁護士)
副委員長 【社 外】邦夫(京都大学名誉教授)
委員 【社 外】小松原明哲(早稲田大学教授)
 【社 外】 田中健次(電気通信大学教授)
 【社 外】槇村久子(京都女子大学教授)
 【社 外】 増田仁視(公認会計士)
 取締役副社長齊藤紀彦
 常務取締役  井狩雅文
(敬称略 社外委員名は五十音順)

4.冒頭挨拶等
4-1.佐藤委員長挨拶骨子
美浜発電所3号機事故再発防止対策については、前回、運転中タービン建屋等への立入制限対策を主に検証したが、本日はその後の状況、本対策以外の再発防止対策の定着状況も確認したい。
安全文化の醸成状況については、平成22年度安全文化評価結果と重点施策の実施状況を確認していきたい。
前回の検証委員会以降、美浜発電所1号機の後継機の可能性検討に向けた自主的調査、高浜発電所3号機でのプルサーマルによる本格運転が開始されるなど、安全を前提とした諸活動の進展も見受けられた。
一方、本年3月11日に東日本大震災が発生し、福島第一原子力発電所事故が起こり、2か月余り経った今日でも、事態の収拾がなされていないという大変憂慮すべき状況が続いている。
この事故を契機に、原子力を取り巻く環境、特に社会の信頼等々に大きな変化が見受けられ、安全文化に係る組織や人の意識、行動等にも影響があるのではないかと思う。
関西電力には、現時点での福島第一原子力発電所事故を踏まえた対応状況について、報告をしてもらうこととしている。
各委員においては、それぞれの専門的な立場から忌憚のないご意見をいただき、活発な議論をしたい。
5.議事概要
5-1.第15回検証委員会で頂いた意見に対する対応状況について
 第15回検証委員会で委員の方から頂いた意見に対する対応状況について、原子力保全改革委員会事務局から報告し、審議・了承。
5-2.美浜発電所3号機事故再発防止対策の実施状況および監査結果について
 美浜発電所3号機事故再発防止対策の実施状況および監査結果について、原子力保全改革委員会事務局、原子力事業本部および経営監査室から報告し、審議。
<審議結果>
美浜発電所3号機事故再発防止対策の中でルール化を検討してきた「運転中タービン建屋等への立入り制限と運転中保全活動に関する施策」については、検証委員会で出された意見や約1年間の試運用の中で出された現場の改善意見を活かして社内標準化を行い、本年3月から本格運用を開始した。
本施策が本格運用されたことにより、再発防止対策の29項目全ての歯止め方策が完了し、日常業務として取り組まれることになるが、今後とも再発防止対策が風化することなく、自律的に実施されているかを本委員会で継続的に確認していく。
<意見等>
美浜発電所3号機事故再発防止対策を日常業務に確実に定着させるとの観点から、監査では、事象に対する改善要望だけではなく、更にその背景要因に対しても改善要望していくことが大切だと思う。(田中委員)。
運転中タービン建屋等における立入制限対策について、原子力事業本部が共通ルールを定め、各発電所が設備の特徴等を勘案しながら、ルール化をしているが、今後とも現場の声が対策の改善に繋がるような仕組みの中で、進めていってほしい(田中委員)。
5-3.安全文化醸成活動状況および監査結果について
 安全文化評価結果および重点施策の実施結果について、原子力保全改革委員会事務局、原子力事業本部から、また、同監査結果について経営監査室から報告し、審議。
<審議結果>
平成22年度原子力安全文化評価においては、原子力事業本部は、評価対象業務を拡大するなどの充実を行うとともに、各所で活発な議論を実施しており、評価の仕組みが有効に機能し、根付いてきたものと考える。
また、重点的に取り組まれてきた「当社・協力会社間における意思疎通の強化策、技術力の維持」等については、各協力会社とのコミュニケーションが繰り返され、各施策の実施・改善が図られているが、引き続き効果的な活動に努めてもらいたい。
今後、トラブルや労働災害を更に低減させていくために、安全文化評価に基づく息の長い改善活動が期待される。
<意見等>
[安全文化全体]
各所の評価結果と原子力部門全体の評価結果に違いがあることはおかしなことではない。全体視点からの議論が重要であり、単純な各個評価の合計といった評価であってはいけない。ただし、全体視点からの議論のポイントを、予め整理しておくことが大切である。(小松原委員)。
安全文化醸成活動について、3年ほど検証してきたが、徐々に成長してきていると感じている。協力会社も含めたこの活動を無形の財産として関電の中に残し、また関電以外にも大きく役立つようにしてほしい。世界の基準となるぐらいの気持ちで前向きに、また外向きにも取り組んでもらいたい(増田委員)。
INSS(JANTI)アンケート結果の評価については、平均値が上昇しているかどうかだけではなく、評価の分散が小さくなっているかどうかについても注目するとよい。(小松原委員)。
モチベーションのアンケート結果が緩やかに向上している状態は良い。人が入れ替わっているにもかかわらず良くなっているのは、組織風土がより良好化していることを意味しているといえ、心強く感じる(小松原委員)。
視点10のルール遵守には、法令の遵守と社内ルールの遵守がある。社内ルールの遵守の評価結果が記載されていないので、両方の評価結果を入れておくと良い(田中委員)。
高圧ガス保安法関係の手続き漏れに関して、この法令の遵守については、今後類似事象が発生しないように、どのような場合に手続きが必要なのか注意喚起を行う仕組みを考えてほしい(田中委員)。
主要法令は注目していても、周辺的な法令等の細部までフォローすることの難しさはあるだろう。今回はフォロー漏れであり、ルール遵守意識の欠如ではなかったと思われるが、法令違反には違いなく、漏れが生じないよう今後さらに改善していくことは重要であり、また、その改善活動は、学習する組織という観点からしても望ましい(小松原委員)。
[協力会社関係]
労働安全の対策については、実際に作業をしている協力会社の自主的な取組みを促すことにより、より一層の効果を期待したい(東副委員長)。
現場作業員には、職場の常識に流されず、自分の行う作業自体に対するリスク意識を持たせることが重要である(小松原委員)。
労災分析による対策を実施した後で起こっている5件の労災に対して、もう少し背景要因を分析し、実施済みの対策にフィードバックすべきもの、別の観点での対策が必要であるものに切り分けて、改善を考えることも必要であると思う(田中委員)。
協力会社の中には、労働災害が多い会社、少ない会社があると思うので、良好な会社の取組みも含めて、労働災害の原因分析を行い、今後に活かしていってほしい(槇村委員)。
安全文化という意味では、アンケートを取らなくとも、問題点を把握し、迅速に対策をとっていくというサイクルが望ましいので、実際に現場で作業を実施しているときに協力会社とより一層のコミュニケーションをとり、速やかに対策をとっていくことが大事だと思う(田中委員)。
協力会社のアンケート結果において、定期検査工程に関する肯定的な評価が下がったことを受けて、作業エリアの調整等、具体的な問題まで深堀されて、対策を立案し、実施されているのは良いことだと思う(槇村委員)。
協力会社作業員は入替りが多いことなどを考慮し、その技術力維持については、今後も継続的に見ていくことが大事であると思う(増田委員)。
5-4.福島第一原子力発電所事故を踏まえた当社の対応状況の報告について
 原子力事業本部から、「福島第一原子力発電所事故を踏まえた当社の対応状況の報告」について報告。
<意見等>
福島第一原子力発電所事故を踏まえた安全性向上対策ならびに地元などへの情報発信状況に関する説明により、現状の取組みについては理解できた。引き続き、事故の詳細が判明していく状況に応じて、必要な対策を適宜実施し、原子力発電所の安全・安定運転に万全を期してもらいたい。今後も、福島第一原子力発電所事故を踏まえた関西電力の対応については注視していく(佐藤委員長)。
5-5.平成23年度の検証委員会の進め方について
 平成23年度の検証委員会の進め方について経営監査室から提案し、審議。
<審議結果>
平成23年度上期(第17回検証委員会)の検証テーマと検証の視点については、以下のとおりとすることで了承。
検証テーマ視  点
安全文化の醸成状況
安全文化評価中間状況確認
若手社員育成策の充実・強化
中間状況確認が適切になされているか。
若手社員育成策が効果的に取り組まれているか。
福島第一原子力発電所事故を踏まえた関西電力の対応については、継続的に注視していく。

<配付資料>
議事次第 [PDF 10.6KB]
第15回原子力保全改革検証委員会で頂いた意見への対応状況について [PDF 17.6KB]
美浜発電所3号機事故再発防止対策実施状況について [PDF 863KB]
安全文化評価の結果について [PDF 500KB]
重点施策の実施結果について [PDF 313KB]
福島第一原子力発電所事故にかかる当社原子力発電所の対応状況について [PDF 325KB]


増田委員、槇村委員、田中委員、小松原委員(左から)佐藤委員長、東副委員長(左から)
増田委員、槇村委員、田中委員、小松原委員(左から)
事故原因は、ずさんな管理にあった!JCO東海村原子力事故
佐藤委員長、東副委員長(左から)

2011年6月11日土曜日

反原発デモが日本を変える


反原発デモが日本を変える

 3月11日の東日本大震災から、この6月11日で3か月が経過する。震災直後に起こった福島第一原発の事故を契機に、日本国内のみならず、海外でも「反原発・脱原発デモ」が相次いでいる。東京においても、4月10日の高円寺デモ、24日の代々木公園のパレードと芝公園デモ、5月7日の渋谷区役所~表参道デモとつづき、6月11日には、全国で大規模なデモが行なわれた。作家や評論家など知識人の参加者も目立つ。批評家の柄谷行人氏は、六〇年安保闘争時のデモ以来、芝公園のデモに、およそ50年ぶりに参加した。今後、この動きは、どのような方向に向かい、果たして原発廃棄は実現可能なのか。柄谷氏は、6月21日刊行の『大震災のなかで 私たちは何をすべきか』(内橋克人編、岩波新書)にも、「原発震災と日本」を寄稿している。柄谷氏に、お話をうかがった。(編集部)
  *  *  *
【柄谷】最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる。こういう考えの前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に没却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。
 日本の場合、低成長社会という現実の中で、脱資本主義化を目指すという傾向が少し出てきていました。しかし、地震と原発事故のせいで、日本人はそれを忘れてしまった。まるで、まだ経済成長が可能であるかのように考えている。だから、原発がやはり必要だとか、自然エネルギーに切り換えようとかいう。しかし、そもそもエネルギー使用を減らせばいいのです。原発事故によって、それを実行しやすい環境ができたと思うんですが、そうは考えない。あいかわらず、無駄なものをいろいろ作って、消費して、それで仕事を増やそうというケインズ主義的思考が残っています。地震のあと、むしろそのような論調が強くなった。もちろん、そんなものはうまく行きやしないのです。といっても、それは、地震のせいではないですよ。それは産業資本主義そのものの本性によるものですから。
 原発は、資本=国家が必死に推進してきたものです。原発について考えてみてわかったことの一つは、原発が必要であるという、その正当化の理論が日本では歴史的に著しく変わってきたということです。最初は、原子力の平和利用という名目で、核兵器に取り組むことでした。これはアメリカの案でもあり、朝鮮戦争ぐらいから始まった。このような動機は、表向き言われたことはありませんが、現在も続いている。つぎに、オイルショックの頃に、石油資源が有限であるという理由で、火力発電に代わるものとして原発の建設が進められるようになった。これもアメリカの戦略ですね。中東の産油国を抑えられなくなったので、原子力発電によって対抗しようとした、といえる。その次に出てきたのが、火力発電は炭酸ガスを出すから温暖化につながる、したがって、原発以外にはない、というキャンペーンです。実際には、原発はウラン燃料作り、原発建設、放射能の後始末などで、炭酸ガスの放出量は火力発電と違わない。だから、まったくの虚偽です。このように、原発正当化の理由がころころ変わるのは、アメリカのブッシュ政権時のイラク戦争と同じです。つまり、最初は大量破壊兵器があると言って、戦争をはじめたのに、それがないことが判明すると、イラクの民主化のためだと言う。途中で理由を変えるのは、それが虚偽であること、真の動機を隠すためだということを証明するものです。原発に関しても同じです。それが必要だという理由がころころ変わるということ自体、それが虚偽である証拠です。
 ―― なるほど。
【柄谷】フクシマのあと、脱原発に踏み切った国を見ると、核兵器を持っていないところですね。ドイツやイタリアがそうです。この二カ国は日本と一緒に元枢軸国だったのです。ところが、日本はそうしない。それは、本当は、日本国家が核兵器をもつ野心があるからだと思います。韓国もそうですね。ロシアやインドは、もちろん核兵器を持っている。核兵器を持っている国、あるいはこれから作りたい国は、原発をやめないと思います。ウランを使う原子炉からは、プルトニウムが作られますからね。元々そうやって原子爆弾を作ったんだから、原子力の目的はそれ以外にはない。原子力の平和利用と言うけれど、そんなものは、あるわけがない。同じ原子力でも、トリウムを燃料として使うものがあります。『原発安全革命』(古川和男著、文春新書)という本に書かれていますが、トリウムはウランより安全かつクリーンで、小型であり、配電によるロスも少ないという。しかし、それがわかっていても採用しないと思います。そこからはプルトニウムができない、つまり、核兵器が作れないからです。
 原発は経済合理的に考えると成り立たない。今ある核廃棄物を片付けるだけで、どれだけのお金がかかるのか。でも、経済的に見て非合理的なことをやるのが、国家なのです。具体的には、軍ですね。軍は常に敵のことを考えているので、敵国に核兵器があれば、核兵器を持つほかない。持たないなら、持っている国に頼らなければならない。できるかぎり自分たちで核兵器を作り所有したいという国家意志が出てきます。そこに経済的な損得計算はありません。そんなものは不経済に決まっていますが、国家はやらざるをえない。もちろん、軍需産業には利益がありますよ。アメリカの軍需産業は戦争を待望している。日本でも同じです。三菱はいうまでもなく、東芝や日立にしても、軍需産業であって、原発建設はその一環です。他国にも原発を売り込んでいますね。日本で原発をやめたら、外国に売ることもできなくなるから困る。だから原発を止めることは許しがたい。したがって、原発を止めるということは、もっと根本的に、軍備の放棄、戦争の放棄ということになっていく問題だと思います。
 ―― 4月24日のデモについて、おうかがいします。柄谷さんは、ご自身が講師を務める市民講座「長池講義」の公式サイトで、「私は、現状において、反原発のデモを拡大していくことが最重要であると考えます」と述べ、反原発デモへの参加を呼びかけられました。実際に芝公園と、その次の渋谷区役所前のデモに参加された。街頭デモへの参加は50年ぶりのことであり、なぜ柄谷さんをこの運動に向かわせたのか、お聞かせいただけますか。
【柄谷】デモに行くということについては、かなり以前から議論していたと思います。数年前から、何カ所かで、「なぜデモをしないのか」という講演をしたのです。『柄谷行人 政治を語る』(図書新聞刊)の中でも、その話をしています。なぜ日本でデモがなくなってしまったのか。そのことについても考察しています。それと関連する話ですが、3月11日以降に、わかってきたことがあります。実際は、1980年代には日本に大規模な原発反対の運動があったのです。それなのに、なぜ今日まで、54基もの原発が作られるに至ったのか。そのことと、なぜデモがなくなったのかということは、平行しており、別の話ではないということです。
 現在言われている反原発の議論は、1980年代に既に全部言われていることですね。事実、多くの本が復刻されて読まれている。今も完全に通用するのです。むしろ驚くべきことは、あの時に言われていた原発の危険性、技術的な欠陥、それらが未だに何一つ解決されていないということです。原発はまた、危険であるがゆえに避けられない過酷な労働を伴います。半奴隷的と言ってもいい労働が、ずっとつづけられてきた。今度の事故で、あらためてそのことに気づかされました。原発に反対すべき理由は、今度の事故で新たに発見されたのではない。それは1950年代においてはっきりしていたのです。しかし、それなら、なぜ原発建設を放置してしまったのか。特に強制があったわけでもないのに、原発に反対することができなくなるような状態があったのです。デモについても、同じことです。デモは別に禁止されてもいないのに、できなくなっていた。では、この状態を突破するには、どうすればいいか。そのことを、僕は考えていました。そこで、デモについていろいろ考え発言したのですが、結局、まず自分がデモをやるほかないんですよ。なぜデモをやらないのかというような「評論」を言ってたってしょうがない。それでは、いつまで経っても、デモがはじまらない。デモが起こったことがニュースになること自体、おかしいと思う。だけど、それをおかしいというためには、現に自分がデモに行くしかない、と思った。
 ―― 参加されて、どんな感想をお持ちになりましたか。
【柄谷】気持よかったですね。参加した人もこれまで、デモについての固定観念を持っていたと思うのですが、来てみたら全然違う、と感じたんじゃないですか。子供連れで来ている人がかなりいました。僕は安保の時に何度もデモに行きましたが、今回のデモは、あの時とは違いますね。しかし、僕がデモに50年ぶりに参加したというのは、日本において、ということです。実は、アメリカに住んでいた頃は、何度かデモに行ってるんですよ。といっても、わざわざ出掛けて行ったのではない。たとえば、10万人のデモが家の前を通っていて、そこを通り抜けないと、カフェにも行けない。だから、ついでにデモに参加したわけです。むろん、イラク戦争反対のデモだったからですが。今回の日本のデモは、そのときのデモに似ています。
 ―― 安保の時とは違うと言われましたが、どのような違いがあったのでしょうか。
【柄谷】1960年のころは、基本的に労働組合が中心で、その先端に学生のデモがあったのです。「全学連」のデモも、最後の半年ぐらいは違いますが、それまでは、国民共闘会議のなかの一集団で、長いデモの先頭にいたんですね。何十万人の参加者の中の、1万か2万ぐらいが学生だった。
 ―― 一緒にやっていたわけですか?
【柄谷】そうですね。ただし、1960年以後、学生と労働者との断絶が続きました。1960年代末の、いわゆる全共闘のころは、学生のデモは労働運動とはつながりがほとんどなかった。その分、デモは過激なものになって、普通の市民は参加できない。だから、いよいよ断絶化する。したがって、1960年以後は、大規模な国民的デモはなかった、といっていいと思います。現在は、大学の学生自治会はないし、労働組合も弱い。早い話が、東電の労組は原発支持ですね。労働組合に支持された民主党も、原発支持です。こんな連中がデモをやるはずがない。だから、現在のデモは、固定した組織に属さない個人が集まったアソシエーションによって行われています。たとえば、僕ら(長池評議会のメンバー)は50人ほどですが、その種の小さいグループが、いっぱいあると思います。今後も、若い人たちがデモをやるならば、僕は一緒に動きます。
 ―― 1991年の湾岸戦争の時、日本の参戦に反対する「文学者の集会」を、柄谷さんは開かれました。その時のことを振り返って、「僕だけなら何もしなかった」「(自分は)受身である場合が多い」とおっしゃっています(『政治を語る』)。今回は自ら呼びかけを行ない、今後もそれはつづけていくと発言されています。
【柄谷】僕は他の人たちがやっているデモに相乗りしているだけであって、自分ではじめたのではない。その意味で受け身です。しかし、それは問題ではない。僕は、運動の中心にならなければならないとは、まったく考えていない。デモがあれば、そこに行けばいい。ただ、たとえデモがあったとしても、ひとりではなかなか参加できないものなんですよ。それなりに連合していないとデモはできないと思います。だからアソシエーションが必要だと言っているわけです。
 ――『政治を語る』の中では、2000年にNAMをはじめた時のことを振り返って、次のように言われています。「この時期に運動をはじめたのは、理論的なこともそうですが、現実に危機感があったからですね。1990年代に、日本で「新自由主義」化が進行した。いつでも戦争ができる体制ができあがっていた。僕は、『批評空間』をやっている間、それに抵抗しようとしましたが、無力でした。たんなる批評ではだめだと思うようになった。だから、社会運動を開始しようと思った」。その時の思いと、今回の行動は繋がっていると考えてもよろしいのでしょうか。NAMの正式名称(New Associationist Movement)が示す通り、当時から、アソシエーションの必要性を強調されていました。
【柄谷】今もそれは同じです。当時、アソシエーションというとき、協同組合や地域通貨といったもの、つまり、非資本主義的な経済の創造を考えていたのですが、それはむろん、今後にますます必要になると思います。特に経済的な危機が来たら。20世紀末に、それまでの「批評」ではだめだと思ったのは、ソ連崩壊以後の世界が根本的に変わってきたと感じたからです。それまでの「批評」あるいは「現代思想」というのは、米ソの冷戦構造の下に出てきたものですね。簡単にいえば、米ソによる二項対立的世界を脱構築する、というようなものです。実際には何もしないし、できない。米ソのどちらをも批判していれば、何もしないのに、何かやっているという気になれた。しかし、ソ連が崩壊したことで、このような世界は崩壊しました。米ソの冷戦構造が終わったことを端的に示したのが、湾岸戦争ですね。そのとき、僕は、今までのようなスタンスはもう通用しないと思った。だから、湾岸戦争の時に、文学者を集めた反戦集会をやったのです。しかし、それに対して僕を批判した連中が大勢いましたね。もと全共闘というような人たちです。たぶん、かつてはデモをやっていた連中が、集会やデモを抑圧するようになっていたのです。しかし、現在、若い人たちは、デモを否定的に見るような圧力をもう知らないでしょう。それはいいと思いますね。
 ―― 確かに今回、特に20代から30代の若い人たちが、積極的にデモに参加している印象があります。
【柄谷】やはり、大きな災害があったからだと思いますね。非日常的な経験をすることで、新しい自分なり、新しい人間の生き方が出てきたんでしょう。これまでの普段の生活の中では、隠蔽されていたものが出てきたんだと思います。資本主義経済というのは、本当にあらゆるところに浸透していて、小さな子どもの生き方まで規定していますからね。最近聞いて、面白いなと思ったものがあります。「就活嫌だ」というデモがあるらしい。それはいいと思う。当たり前の話で、大学に入学して間もなく就職活動を始めなきゃならないなんて、嫌にきまっていますよ。こんなものが大学ですか。今の大学に学問などないということは、原子力関係の研究者の様子を見れば、わかります。だから、嫌だといえばいい。デモをすればいい。
 ―― 柄谷さんは『政治を語る』の中で、繰り返し、デモの必要性を説かれていますが、その意味で、「希望の芽」のようなものが、今出はじめたと思われますか。
【柄谷】そう思います。3月11日以後、日本の政治的風土も少し変わった気がしますね。たとえば「国民主権」という言葉があります。国民主権は、絶対王制のように王が主権者である状態をくつがえして出てきたものです。しかし、主権者である国民とは何か、というと難しいのです。議会制(代表制)民主主義において、国民とはどういう存在なのか。選挙があって、国民は投票する。その意味で、国民の意志が反映される。しかし、それは、世論調査やテレビの視聴率みたいなものです。実際、一か月も経てば、人々の気持はまた変わっている。要するに、「国民」は統計的存在でしかない。各人はそのような「国民」の決定に従うほかない。いいかえれば、そのようにして選ばれた代行者に従うほかない。そして事実上は、国家機構(官僚)に従うことになる。こんなシステムでは、ひとりひとりの個人は主権者ではありえない。誰か代行者に拍手喝采することぐらいしかできない。
 昔、哲学者の久野収がこういうことを言っていました。民主主義は代表制(議会)だけでは機能しない。デモのような直接行動がないと、死んでしまう、と。デモなんて、コミュニケーションの媒体が未発達の段階のものだと言う人がいます。インターネットによるインターアクティブなコミュニケーションが可能だ、と言う。インターネット上の議論が世の中を動かす、政治を変える、とか言う。しかし、僕はそう思わない。そこでは、ひとりひとりの個人が見えない。各人は、テレビの視聴率と同じような統計的な存在でしかない。各人はけっして主権者になれないのです。だから、ネットの世界でも議会政治と同じようになります。それが、この3月11日以後に少し違ってきた。以後、人々がデモをはじめたからです。インターネットもツイッターも、デモの勧誘や連絡に使われるようになった。
 たとえば、中国を見ると、「網民」(網はインターネットの意味=編集部注)が増えているので、中国は変わった、「ジャスミン革命」のようなものが起こるだろうと言われたけど、何も起こらない。起こるはずがないのです。ネット上に威勢よく書き込んでいる人たちは、デモには来ない。それは日本と同じ現象です。しかし、逆に、デモがあると、インターネットの意味も違ってきます。たとえば、日本ではデモがあったのに、新聞もテレビも最初そのことを報道しなかった。でも、みんながユーチューブで映像を見ているから、隠すことはできない。その事実に対して、新聞やテレビ、週刊誌が屈服したんだと思います。それから段々報道されるようになった。明らかに世の中が変わった。しかし、それがインターネットのせいか、デモのせいかと問うのは的外れだと思います。
 ―― 地震直後と現在と比べて、柄谷さんご自身の考え方に変化はありましたか。
【柄谷】それはもちろんありますが、あまり大きくは変わらないですね。最初は、この先どうなるか、見当がつかないぐらいだった。現在だって、こういう状態が、ずっとつづくのかなと思っていますが。原発事故の後、「ただちに危険はない」と、よく言われていましたね。でも、外国人はただちに国外に逃げていた。ドイツなんて、成田への直行便をやめてしまった。今でも僕が見ているのは、ドイツの気象庁が出しているデータです。彼らは最初の段階から、きちんと情報を提供していた。その日の風向きによって、放射性物質がどういうふうに流れているか、毎日伝えています。それは風向き次第で、大阪や札幌には飛んでいくし、時にはソウルまでいっている。外国人はそれを見ているが、日本人は見ていない。日本では内緒にしようとしているからです。だから、そういうことを知らない人が多い。しかし日本政府が隠そうとしても、もはや隠すことはできない。今はすぐにインターネットで情報が流れます。外国人は騒ぎ過ぎるとか、風評被害であるとか言う人がいますが、黙っている方が罪は重い。危険であることを当たり前に指摘するのが、なぜ風評なのか。日本人が何も言わないのは、真実を知らされていないからです。最近になって、段々状況がわかってきたので、怒り出した人たちがいます。
 つい最近、イタリアで、2009年4月に起こった地震(309人が死亡、6万人以上が被災した)に関して、防災委員会の学者らが大地震の兆候がないと判断したことが被害拡大につながったとして起訴された。この場合、地震学者が大地震は「想定外」だったと弁明することは許されると思うのですが、それでも起訴されています。一方、福島第一原発の場合、当事者らが大地震は「想定外」だったという弁解は成り立たない。東電はいうまでもなく、官僚、政府にいたるまで、罪が問われても当然です。あれは紛れもなく犯罪ですから。しかも、放射能汚染水を海に垂れ流していますから、国際的な犯罪です。「東京(電力)裁判」が必要になると思う。というと、これから未来に向けて何かしなければならないときなのに、原発事故の責任を問うということは、後ろ向きでよくないという人がいます。しかし、過去の問題に対して責任を問うことは、まさに未来に向かうことです。これまで危険な原発を作ることに、なぜ十分な反対もできなかったのか。そのような責任の意識から、僕は今デモに行っています。
 若い人たちは違いますよ。生まれた時に、すでに原発があったから。だけど、今後に原発の存続を許せば、今回と同じことが起こるわけです。デモの先導車でラップをやっていた若い女の子が、もし原発を放っておいたら、未来の人たちに申し訳ない、という。そういう気持が若い人たちにもあるんだな、と思った。それから、京都大学原子炉実験所の助教である、小出裕章さんという人の講演を聞いたときも、感銘を受けました。彼は「原発を止められなくて申しわけない」と話しつつ涙ぐんでいた。今回の事故の後、「ほら見たことか。俺はあんなに反対していたんだ」と言うこともできたはずですが、何であれ、止めることができなかったことに変わりはない、だから申し訳ない、ということです。原発を推進した連中が責任を問われるのは当たり前ですが、一番そのような責任から免れているはずの人が責任を感じている。ならば、僕のような者は、責任を感じざるを得ないですね。
 恐ろしいと思うのは、原子炉は廃炉にするといっても、別に無くなるわけじゃないということです。閉じ込めるための石棺だって壊れる。これから何万年も人類が面倒見ていかなければいけない。未来の人間がそれを見たら、なんと自分たちは呪われた存在か、と思うでしょうね。しかも、原子力発電を全廃しても、核廃棄物を始末するためだけに原子力について勉強をしないといけない。情けない学問ですが、誰かがやらざるをえないでしょう。しかし、いかなる必要と権利があって、20世紀後半の人間がそんなものを作ったのか。原発を作ることは企業にとってもうけになる。しかし、たかだか数十年間、資本の蓄積(増殖)が可能になるだけです。それ以後は、不用になる。不用になったからといって、廃棄できない、恐ろしい物です。誰でも、よく考えれば、そんな愚かなことはやりません。しかし、資本の下では、人は考えない。そこでは、個々の人間は主体ではなくて、駒のひとつにすぎません。東電の社長らを見ると、よくわかります。あんな連中に意志というほどのものがあるわけがない。「国家=資本」がやっているのです。個々人は、徹頭徹尾、その中で動いているだけですね。ただ、それに対して異議を唱えられるような個人でないと、生きているとは言えない。
 ―― 脱原発の動きについては、そのひとつの試みとして、ソフトバンクの孫正義さんが提案している案(大規模な太陽光発電所の建設など)も、最近注目を集めています。
【柄谷】ぼくは信用しない。自然エネルギーの活用というような人たちは、新たな金儲けを考えているだけですね。エコ・ビジネスの一環です。太陽光というと、パネルなどを大量に生産することができる。あるいは、大量に電気自動車を作ることができる。しかし、サハラ砂漠ならともかく、日本では、太陽光発電そのものが環境破壊となる。そんなものは、いらない。現在のところ、天然ガスで十分です。それなら日本の沿岸にも無尽蔵にある。要するに、先ず原発を止める。それからゆっくり考えればいいんです。
 ―― 反原発運動を考える際に、現在「不買運動」の必要性を指摘する人もいます。これは、NAMの時に、柄谷さんがおっしゃっていたことに繋がっているんじゃないかと思います。
【柄谷】不買運動はいいと思いますが、今のところ、まずデモの拡大が大事だと、僕は思う。その中から自然に、そういう運動が出てくればいい。先程言った「就活嫌だ」というようなデモでもいい。とにかく何か事あれば、人がデモをするような市民社会にすることが重要だと思います。それが、主権者が存在する社会です。一昔前に、人類学者が『ケータイを持ったサル』という本を書きました。若い人たちがお互いに話すこともなく、うずくまってケータイに向かっている。猿山みたいな光景を僕もよく見かけました。たしかに、デモもできないようでは、猿ですね。しかし、ケータイを棄てる必要はない。ケータイをもったまま、直立して歩行すればいいわけです。つまり、デモをすればいい。実際、今若者はケータイをもって、たえず連絡しながら、デモをやっていますね。そういう意味で「進化」を感じます。
 ―― 最後に、現在立ち上がった運動が持続するために、何が必要だと思われますか。
【柄谷】デモをすることが当たり前だというふうになればいい。「就活嫌だ」のデモでいい。「職をよこせ」のデモもいい。デモをやる理由は無数にあります。今の日本企業は海外に移って、日本人を見捨てています。資本はそうしないとやっていけないというでしょう。しかし、それは資本の都合であって、その犠牲になる人間が黙っている必要はありません。異議申し立てをするのは、当然のことです。それなのに、デモのひとつもできないのなら、どうしようもないですね。誰かがやってくれるのを待っているのでは、何もしないのと同じです。誰かがやってくれるのを待っていると、結局、人気のあるデマゴーグの政治家を担ぎ上げることにしかならないでしょう。それは結局、資本=国家のいいなりになることです。

2011年6月5日日曜日

震災から80日が過ぎた石巻と女川のいま

震災から80日が過ぎた石巻と女川のいま

おととい5月31日の河北新報の記事で、牡鹿半島の先端を洗う「山鳥(やまどり)渡し」と呼ばれる狭い瀬戸を渡ったところにある島・金華山(きんかさん)が、3月11日の大地震と4月7日の余震で大きな被害を受けたことをはじめて知りました。
今は石巻市に属するこの島の黄金山(こがねやま)神社の拝殿前に立つ青銅製の燈籠(とうろう)は、香川県の金毘羅(こんぴら)さんや山形県の山寺の燈籠とともに日本三大燈籠とされてきたものです。
これを最初に目にしたのは、まだ小学生だった昔、はじめて両親にこの島に連れて来てもらった時。
それ以来何度となく見てきたこの燈籠(常夜灯)が二つとも地震で折れ逆さに倒れている(記事の横の)大きな写真を目にして、亡くなった父や弟や友人などとこの島で共に過ごした時がよみがえってきました。
同時に、長くゆるやかに見える時の流れの速さ・短さと無常を思い知らされもしました。
さて、このたびの東北地方太平洋沖地震とそれに伴って起きた大津波から、早くも80日が過ぎ去りました。
5月29日付けの朝日新聞の「主な被害状況」によれば、最も被害の激しいのは石巻市(人口は約17万人)です。
亡くなった人は3025人と3千人を超えています(ついでひどいのは岩手県陸前高田市の1506人)。
行方不明者も約2770人に上っています(つづいては岩手県大槌町の約950人)。
そして、全壊した住宅数は約2万8千棟に及んでいます(次に多いのは西隣の東松島市の約4790棟)。
石巻市に海岸部と島部を除いた周りをぐるりと囲まれた女川町(人口約1万人)も、人口に対する被害の割合は高く、死亡者は476人、行方不明者は約570人に上り、住宅の全壊は約3020棟を数えます。
最近、遠方から取材にやってきた新聞社のチームの車で見て回ることができた女川町の原発近くの沿岸にある各集落の被害状況は、2か月半以上過ぎた今も3・11直後と余り変わらず、集落のほとんどの住民が学校などの避難所で過ごしている例も少なくありません。
これまでに復旧した鉄道について見ると、仙石線で運行が再開されたのは、(終着駅どおしである石巻・あおば通り間のほぼ中間地点にある)高城町から青葉通りまで(約26キロ)だけ。
石巻・矢本間(約9キロ)も7月末には運行再開の予定とのことですが、矢本・高城町間(約16キロ)はまだ再開の見通しが立っていないといいます。
石巻線も、石巻・小牛田間は通じたものの、石巻と終点の女川間の線路などの復旧の見通しはまだ全く立っていないようです。
一方、宮城県内の各家庭の停電は、津波で家屋などが流失した地域の約4万9千戸と女川町の出島(いずしま)を除き、5月30日中にすべて解消したということです。
温帯低気圧に変わった台風2号の強い風と雨で石巻地方が大荒れの天気となったこの日、妻が看護師として去年3月まで勤めていた石巻赤十字病院では、看護専門学校の約2か月遅れの入学式が行なわれました。
新入生は39人。うち18人が被災し、1人が避難所から通うといいます。
湊地区にある石巻赤十字看護専門学校校舎で授業中に地震に遭った2、3年生(当時1,2年生)は、津波警報を聞いて避難所の湊小学校に避難、そこでお年寄りや体の弱った被災者の看護に当たってきたとのこと。
6月から開始される今年度の授業は、津波被害で校舎が使えなくなったため、石巻専修大学の教室を間借りして行なわれるということです(5月31日付け毎日新聞、6月1日付け石巻かほく)。
ありがたいことに、震災後間もなくの3月27日、松本桂輔さん(40)という方が札幌の診療所を休職して当地方の中核病院である石巻赤十字病院にボランティア応援医師として駆けつけ、今も同病院で活動に当たっているといいます。
その方がきょう6月2日付けの河北新報の記事「助け合う力」第20回で次のように述べています(かっこ内は筆者の注)。
「震災直後、石巻赤十字病院のスタッフに電話をかけ、人手が足りず大変な状況だということが分かった。自分を育ててくれた地域への恩返しの意味でも、ぜひ力になりたいと思った。・・・混乱は少し収まっていたが、救急外来の患者が次々と訪れ(診察のため3月23日に訪れ、27日にまた訪れてそのまま入院した私もそのひとり)、全国から駆けつけた医師たちが懸命の診察に追われていた(初めに訪れた際に私が診てもらったのは福岡市の医師や看護師)。・・・私が研修医をしていたころ、石巻赤十字病院は現在の蛇田地区に移転する前で湊地区にあった。その湊地区は津波で壊滅的な被害を受け、変わり果てた状態だった。ショックだった。復興にはかなりの時間を要すると思うが、いつか必ず元気な姿を取り戻してくれると信じている」
北上川を挟んで石巻赤十字病院のある地区の対岸にある石巻専修大学の広大なキャンパスには、震災後千二百人もの人々が一時的に避難したといいます。
「石巻市災害ボランティアセンター」となったこの大学を1カ月ほど前に私が訪れたとき、全国各地から集まった多くのボランティアがキャンパスの外側にある堤防のすそにまでテントを張っているのに驚きましたが、このキャンパスで今も700人を超すボランティアが寝泊りしているとのことです(5月31日付けの朝日新聞のワイド記事「大学、地域の復興に力」)。
海外から石巻に支援にやって来る人々も少なくありません。
2004年のスマトラ沖地震に伴って起きたインド洋の津波で、スリランカでは約3万5千人もの死者・行方不明者が出ました。
そのスリランカの政府が派遣した15人の支援チームもその一つです。
5月13日に石巻に入りし、NGO「ピースボート」の基でガレキの撤去やテントの設営・修復などの支援活動を行ない、避難所となっている小学校で太鼓やギターなどの演奏もしたということです。
このチームの隊長チャンダナ・ウィクラマナイケさん(39)は次のように語っています(5月31付けの朝日新聞に載ったコラム記事「世界から被災地へ」)。
「我々が津波被害を受けた時に支援してくれた日本に恩返しができた。津波被害をうけた国民同士、一緒に立ち直っていきたい」
5月30日、女川の町立第1中学校で、香川県の陸上自衛隊第14旅団第15普通科連隊と第14偵察隊(香川県善通寺市駐屯)の隊員たち(女川町で活動してきたのは400人)に対する感謝の式(隊員80人が出席、町内の小中学生と教職員ら約300人が参加)がありました。
このほど任務を終えて地元の第6師団と交代することになったというこの香川県の自衛隊員たちは、震災から1週間後の3月18日に女川に入ってから2カ月以上ものあいだ復旧活動に当たってきたといいます。
次は、各学校を代表して感謝の言葉を述べた生徒たちの1人、佐藤理句君(女川1小6年)が隊員の方たちに贈ったメッセージです(5月30日付け石巻日日新聞)。
「ぼくたちが住む女川町は津波によって、たくさんの人が命をうばわれ、建物がこわされました。今まできれいだった町がなくなりました。ぼくは大きなショックをうけました。これからどうなるんだろうと不安でいっぱいでした。
それから2,3日して皆さんが来てくれました。初めは、なぜ来てくれたのかはわかりませんでした。・・・
毎日、ガレキの処理をしてくれたり、救援物資を運んでくれたりしました。食べ物をいただいた時は、とてもうれしく家族でよろこびました。周りの人たちもみな、うれしそうな表情でした。
また、女川1小が中学校へ引越しをするときも手伝っていただきました。自衛隊の協力のおかげで、引越しも安心してできました。
それからお風呂でもお世話になりました。ぼくは自衛隊の“こうぼうの湯”がとても気持ちよく大好きです。
震災から2か月が過ぎました。遠くの香川県に家族を残して、ぼくたちの女川町のために活動する姿に勇気と希望をいただきました。ふるさとの香川県では、きっとみなさんの帰りを家族の方が楽しみに待っていることと思います。帰ったら家族の方をだきしめてください。そして、これまで会えなかった時間を取り戻してください。
ぼくたちも、この女川町をいつまでも大切にし、一生けん命生きていきます。何年後かに新しく生まれ変わった女川町に来てください。その時を楽しみにしています。
自衛隊のみなさん、ありがとうございました。さようなら」
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