2012年3月24日土曜日

タバコと被曝


タバコ第2弾・・・タバコと被曝(1)

2012年03月23日 15:18
タバコのことを今、このブログに出すことは私にとって「損」かも知れません。でも、現在の日本の闇は一つ一つのことに自分の信念ではなく「損得」で決めることから来ているように思います。
私は「これを言ったら損だ」などはまったく考えません。自らの学問的な信念に基づき、この時点で明らかにしなければならないものは、どんなに不利が予想されてもやる必要があります。それが学問というものです。
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「危険」というのは、状況によって変わります。一つは「自分の意思で自由に危険を冒すもの」で、もっとも過激なのは「冒険」です。なにしろほとんど成功の可能性がなく、遭難の危険性が高い「***の最高峰で未踏の山」に挑戦することすらあるからです。かつて世界最高峰のエベレストに挑むなどがそうですが、それを成功させたときの賞賛の大きさは、危険と隣り合わせだからこそです。
このような「自分の意思で危険を冒す」ものでもっとも危険なものはハンググライダーだと10年ほど前のイギリスの本で読んだことがあります。
これに対して、自分の意思ではない危険があります。歩行者の交通事故、原発からの被曝などがそれに当たります。また自然災害も広い意味ではこれに当たります。つまり、1)自分が自らの意思で行って自らが危険になる、2)他人の意思で行われているもので自分が危険になる、という2つがあります。
さらに、1)は、a)全くの趣味で行い自分が危険になる・・・(登山、ハンググライダー、タバコ、お酒など))、 b)社会的要請があり、それに応じることによって自分が危険になる(消防士、原発作業員、危険な地域に向かうボランティアなど)、 c)腐っているかも知れない食品を自らの意思で食べておなかを壊すなど、があります。
難しいのは、2)で、A)自分の意思ではないが自分がメリットを受けているもの(自動車事故:たとえば自分は歩行者で自動車を運転しないが、車で配達される宅急便を利用したり、大量に車で輸送されるスーパーの食材を買うなど)、B)代替え手段があるが社会的合意でメリットを優先して危険を甘受しているもの(原発に代表される。電気をもらう代わりに1年1ミリの危険を受ける)、C)本人にメリットも何もないのに被害だけを受けるもの(タバコの副流煙、隣の騒音など) があります。
タバコを吸う人の危険性は、1)のa)、つまり自らの趣味で自ら危険のある行動をして、治療など他人の世話になるものに分類されます。ところがタバコを副流煙で被害を受けるのは、2)のC)、つまり本人になにもメリットが無いのに被害だけを受けるというものです。
この2つの危険性をどの程度に見るかというのは学問的に良く研究されています。私が勉強したものでは、意思100倍、メリット100倍という感じです。つまり、自分の意思で行う行為(タバコを吸う)と他人がやって自分にはメリットもない危険(副流煙)は「危険を感じる感度」に1万倍の差があることを示しています。
タバコを吸う人が「副流煙など騒ぎすぎだ」と感じ、タバコを吸わない人が「臭くて危険でタバコは困る」と反感を感じるのは、「意思とメリット」の関係ですから、両方とも正しいのです。
もし、喫煙する人は「副流煙で苦しんでいる人は自分たちの1万倍の感度だから、気をつけなければ」と思い、副流煙で苦しんでいる人は「喫煙者は悪げはない。自分の好きなものを吸っているのでどうしても感度が鈍い」とお互いに思って気をつければかなり感情的な対立は減るように思います。
被曝もそうで、健康な成人男子で自分の意思で原発に勤務し、それでお金(給料)をもらっている人の被曝限度が1年20ミリシーベルトまでですから、病気がちの子供(その親)で、石炭火力の電気で生活ができるのに、原発が事故を起こして強制的に被曝させられる時には1年1ミリシーベルトでも危険に感じるでしょう。
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タバコの問題にしても、被曝の限度にしても、今、日本で議論されているのを見ると「相手の立場になっていない」ことを感じます。たとえば、1年1ミリは厳しすぎる、オーバーだと言っている人の多くは、「私はビジネスをしているので電気がいる」という経団連などの人もいますが、その人は「原発の電気を使うと電気代が節約できる(怪しいが)」というのですから、原則的にはお子さんの被曝を心配するお母さんに比べると、同じ被曝でも危険性が100分の1に感じられているのです。
この傾向は全体的にもあり、日本の経済発展のためには原発は必要だと考えている人は1年1ミリのことも、瓦礫のことも「そんなのは危険では無い」と感じ、お子さんをお持ちのお母さんは「危険」と思うのは、人間の心の動きとしては当然でもあるのです。
このような問題の解決は「相手の身になって議論する」ということであり、自分が正しいと思うことも、相手の身になって考えれば別段、不思議なことではない場合が多いということです。このように危険と言うものはかなり複雑で、その規制値も専門的な基準になっています。
まして、原発の被曝の危険性が、タバコをすう危険性に比べて小さいなどということを言う専門家もいますが、あまりに浅い議論です。さらに、「寿命が来てガンで死ぬ人に比べれば、被曝でガンになる可能性は・・・」などという比較はさらに難しいことが判ります。自然死に対して、「他人から強制されて死ぬ(殺人か殺人の類似)」の場合は、全く人の感情が違うのです。
我が子を失う場合でもやむを得ない病気の場合と、残忍な殺され方をした場合と、同じ心理状態にいることはできません。指導的立場にある人、専門家、自治体の首長、職員は危険に関する感受性について、もっとよく考えて発言することを望みます。法律の罰則や規制値などは病気になる確率などが基本ですが、それにこの感受性も加味して決められています。

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