2012年3月31日土曜日

「原発震災」を招いた国の「原子力防災対策の思想」

「原発震災」を招いた国の「原子力防災対策の思想」

2011年3月11日に起きた、宮城県沖地震による津波で崩壊した福島原発事故から、一年が経過した。 原発事故で、被ばくした被爆国の防災対策を考ええてみる。
(以下は、石巻市民の会より記載)

1999年9月に起きたJCO(ジェイ・シー・オー)臨界事故を受けて、その年12月に原子力災害対策特別措置法(原災法)がつくられました。

この法律の成立・施行によってはじめて、万が一の原子力災害時に政府が原子力防災対策の前面に立つ仕組みが整えられました。
 そして、原子力施設のある道府県それぞれに原子力災害時の防災対策の中心となるオフサイトセンター(原子力防災対策センター)が建てられ、その施設での国・県・市町村が一堂に会した原子力合同対策対策協議会の訓練、原子力施設周辺での緊急時環境放射線モニタリング訓練、一部住民が参加しての避難訓練等を主な内容とする国主催の原子力防災訓練も、年1回、どこかの道府県で行なわれるようになりました(1巡目の終わりに近い今年度は女川原発の地元で行なおうと宮城県が手を挙げていた)。
ですが、原子力ムラの学者ばかりか政府・自民党も、「屋内退避や避難などの住民防護対策が必要となるような原発事故など現実には起こりえない」という考えを根本的に改めた訳ではありませんでした。
次は、私が10年前に実際に見聞きしたことです。
「(2000年)10月28日島根県で、原子力災害対策特別措置法に基づき国が計画した原子力防災訓練が初めて行われた。避難訓練は、避難対象地区が原発の風下2キロ内、避難先が原発の風下3キロ先の町立武道館というなんとも矮小なものだった。チェルノブイリ原発事故では、国境を超えた約300キロ先の村々の住民を含む40万人が避難や移住を強いられたというのにである。
避難訓練には幼児や小中学生も参加していた。つい先日鳥取県西部地震を経験したばかりのこの子どもたちに向かって、避難施設を訪れた現地対策本部長の坂本剛二通産総括政務次官は次のように語りかけた。
『東海村のような事故は再び地球上ではありえない』
『地震が起きても自動停止するから大丈夫』
『訓練は安心を確保するためなので気楽にやってください』」
(日下郁郎「揺れる原子力防災計画」、『技術と人間』2000年11月号所収)
原災法とその成立後に改訂された原子力安全委員会の「防災指針」などに従って、原子力施設のある各道府県のほとんどが道府県原子力防災計画(地域防災計画・原子力災害対策編)を改訂しました。
しかし、今に至るまで、原子力防災対策を整備すべき地域の範囲(以下では原子力防災対策範囲と略。国はEPZ―イー・ピー・ゼット―と略称している)を原発の半径10キロ圏内のままとするなど、計画の核となる部分は変えていません。
福井県と茨城県の2県だけは、原災法ができる前に県原子力防災計画を改訂していました。
1995年12月に福井県敦賀市にある高速増殖炉・原型炉「もんじゅ」がナトリウム漏れ火災事故を起こし、1997年3月には茨城県東海村にある再処理工場がアスファルト固化処理施設の火災爆発事故を起こしたため、これら2県はそれまでの計画の改訂を余儀なくされたのです。
茨城県では、この東海再処理工場の事故後に、「原子力防災対策検討委員会」(能澤正雄委員長)が組織されました。
この委員会の「事故想定ワーキンググループ」の委員をつとめた学識経験者は、青地哲男氏(主査、(財)日本分析センター技術相談役)、近藤駿介氏(東京大学大学院工学系研究科教授)、小川輝繁氏(横浜国立大学工学部教授)の三氏。
「避難対策等ワーキンググループ」の委員をつとめた学識経験者は、吉田芳和氏(主査、放射線計測協会技術相談役)、稲葉次郎氏(放射線医学総合研究所研究総務官)、廣井脩氏(東京大学社会情報研究所教授)の三氏でした。
(当時、原子力安全委員会の原子力発電所等周辺防災対策専門部会の委員もつとめていた近藤駿介氏は、現在は原子力委員会の委員長をつとめている)。
委員会の審議結果は「避難計画等の基本形」を核とした「原子力防災等の充実強化について」(1998年8月)にまとめられ、それを基に茨城県の原子力防災計画は改訂されました。
原子力安全委員会は、JCO事故の起きる少し前に出した報告書「防災計画の実効性向上を目指して」(1999年4月)で、同委の防災指針にしたがって原発の10キロ圏内を原子力防災対策範囲とし、わずか3キロ圏内の住民のせいぜい5~6キロ圏内への避難(避難先施設は風下でもよい)を主な内容としたこの茨城県の「避難計画等の基本型」(詳しくは次回の記事で紹介)を推奨しています。
この「避難計画等の基本型」に象徴される原子力ムラの「原子力防災対策の思想」は、今回の福島原発の1~4号機の爆発の瞬間まで、国の原子力規制行政の中心機関である原子力安全・保安院の役人や関係する学者、原子力安全委員会(現在は原子力委員会とともに内閣府に置かれている)の5人の委員やその事務局の役人、関係する学者等の頭に連綿と引き継がれてきました。
このことは西日本新聞の先月末の次の記事からも明らかです。
「原子炉の冷却機能が失われた―。防災服姿の閣僚らが勢ぞろいした首相官邸の大会議室。『緊急事態宣言を発出する』。当時の首相麻生太郎の声が響いた。
2008年10月22日、政府の原子力総合防災訓練が行われた。設定された事故現場は福島第1原発3号機。原子炉の水位低下で核燃料が破損、放射性物質が大気中に放出された―とのシナリオに沿って訓練が進んだ。
しかし、想定された住民の避難区域はわずか半径2キロ。放射性物質の放出は、冷却機能の復旧で7時間後には止まることになっていた。3基同時に原子炉の燃料が破損し、なお半径20キロ圏の住民避難が続く現実の事故との落差は、あまりに大きい。
『国内では放射性物質が大量飛散するような大事故は起きないことになっていた』(電力会社関係者)。安全神話は崩壊した。経済産業省原子力安全保安院の寺坂信昭院長は、今年4月初めの国会答弁で『認識に甘さがあったと反省している』と述べた」(2011/04/30付 西日本新聞朝刊)
このたびの世界初の「原発震災」で日本政府の当初の避難指示が「原発の3キロ圏内」となったのも、このような「思想」が上記役人たちの頭を支配してきたからだったのでしょうか。
話は戻りますが、東海再処理工場のアスファルト固化処理施設の火災爆発事故後間もなく核燃料加工工場JCOで臨界事故が起きたことから、茨城県は再度、県原子力防災計画を改訂せざるをえなくなりました。
核燃料加工施設で臨界事故が起きることなど全く想定していない防災計画だったからです。
改訂のため再び「原子力防災対策検討委員会」が組織され、近藤駿介氏などがまた委員となりました。
けれども、「事故想定ワーキンググループ」主査の青地氏の名前は、その委員会名簿には載っていませんでした。
私はその理由を、JCOの施設設置の際にその安全審査に当たった青地氏が臨界事故の発生を重荷に感じたからではないか、と推測しています(当時も今に至るまでも、青地氏がこの委員会から姿を消したことも、その事情についても、公然と話題になったことは一切ありませんが)。
さて、今度は、原子力委員会の委員長の近藤駿介氏などが辞めなければならないことになるのでしょうか。
いや、今も進行中の世界初のこの原発震災は、原発事故を見くびってきた戦後の歴代政府と原子力ムラ総体が招き寄せた放射能災害であり、現在の原子力ムラのトップクラスの何人かに責任を負わせて済ますには余りに大きく重い人工災害だと言わざるをえません。
歴代の共産党・政府首脳と学者たちが招き寄せ、70年余続いたソ連が消滅する原因の一つとなったあのチェルノブイリ原発事故のように。
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